震災復興に一応の区切りがつき、日本が軍国主義化の道を歩みはじめると、中村工務所の仕事は減少しはじめ、1940(昭和15)年には中村与資平のほか所員は1名となってしまった。太平洋戦争による空襲が激しくなった1944(昭和19)年、中村はついに東京の事務所を閉鎖し、故郷の浜松(天王)に疎開した。
戦後は浜松ロータリークラブ(昭和24年ごろは「浜松火曜会」といった)の会員となり、社会奉仕、国際親善につくした。1949(昭和24)年の火曜会の名簿には、職業は建築設計となっていた。ロータリークラブの例会では、「建築上より見た日本民族の発祥地」、「ドイツのお話」などの講演をしているが、会場は自分の設計した浜松市公会堂や浜松銀行協会であったのは彼にとっては幸せであったであろう。
1952(昭和27)年9月14日西川熊三郎氏らにすすめられて、県教育委員会の委員選挙に立候補を表明、10月5日の選挙では約20万票を得て第2位当選を果した。そして、1956(昭和31)年には県教育委員会の副委員長となった。
1963(昭和38)年12月21日、83歳で輝かしい生涯を閉じたが彼の作品は今も浜松、静岡、東京、大阪をはじめ韓国、中国にも数多く残っており、人々に愛されている。
※この展覧会を催すにあたりまして、多くの設計図等を寄贈いただきました与資平氏のご子息、中村邦一氏をはじめ、栗原勝浜松市長、静岡銀行、浜松銀行協会、窪町小学校、済生会中津病院、静岡県建築士会、など多くの皆さまのお教えをいただきました。厚くお礼申しあげます。
また、次の文献を一部引用させていただきました。
「近代建築ガイドブック」、「建築家 中村与資平について」、「建築家中村与資平の研究」 ありがとうございました。