[前編]

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中区栄町(さかえまち)にある旧浜松銀行協会(きゅうはままつぎんこうきょうかい) の建物(たてもの)は国が大切に守っていくと決めた文化財(ざい)で今も使われています。
約(やく)八十年も前に建(た)てられたのに、今でも使われているなんてすごいと思いませんか?
このお話は、この建物(たてもの)を設計(せっけい)した東区出身の有名な建築家(けんちくか)の物語です。
※裏表紙(うらびょうし)に旧浜松銀行協会の詳(くわ)しい説明があります。
 
今から約(やく)百三十年前、明治(めいじ)十三年(一八八〇年)、長上郡天王新田村(なかかみぐんてんのうしんでんむら)今の浜松市東区天王町(はままつしひがしくてんのうちょう)の中村家 に待望(たいぼう)の長男が生まれました。
※中村家は江戸時代から代々庄屋をつとめた大きな農家でした。

▲ 中村家銅版画(なかむらけどうはんが)

国内ばかりでなく、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や旧満州(きゅうまんしゅう) で有名な建物(たてもの)を設計(せっけい)した建築家(けんちくか)、中村與資平(なかむらよしへい)そのひとです。
※旧満州は今の中国東北部
 
與資平(よしへい)は7歳(さい)で地元の下堀尋常小学校(しもぼりじんじょうしょうがっこう) に入学し、卒業後(そつぎょうご)浜松高等小学校(はままつこうとうしょうがっこう) へと進みます。
歩いて2時間もかかるので、遅刻(ちこく)したりずる休みして遊んでばかりいました。
※下堀尋常小学校は今の浜松市立与進小学校で当時としては珍しい洋風の建物でした
※浜松高等小学校は今の浜松市立元城小学校
 
そのため、高等小学校(こうとうしょうがっこう)の一年生の時には成績(せいせき)が悪く、上の学年にあがれませんでした。

 

勉強もしない、その上、家の手伝いもしないのできびしい父親に怒(おこ)られ木にしばりつけられたこともありました。
 
ある時、與資平(よしへい)は教室でメモを拾(ひろ)います。
それは成績(せいせき)トップの同級生のもので日曜日の勉強の時間割(わり)が書かれていました。

 

與資平(よしへい)は勉強のコツが分かれば分かるほど、あれも知りたい、これも知りたいと勉強がおもしろくなりました。

 

そして、浜松第一中学校(はままつだいいちちゅうがっこう) の二年生の時には、クラスでトップになりました。
※浜松第一中学校は現在の静岡県立浜松北高等学校
 
卒業後(そつぎょうご)、全国から勉強ができる人たちが集(あつ)まる京都の第三高等学校 に進みます。
※第三高等学校は京都大学の前身
その後ついに東京帝国大学工科大学(とうきょうていこくだいがくこうかだいがく) に入学をはたします。
子どもの頃(ころ)、勉強をしなかった與資平(よしへい)はちょっとしたキッカケで大変身(だいへんしん)をとげたのです。
※東京帝国大学工科大学は後の東京大学

国立国会図書館ホームページより転載

東京帝国大学工科大学(とうきょうていこくだいがくこうかだいがく)には日本を代表する建築家(けんちくか)がいました。
東京駅を設計(せっけい)した辰野金吾(たつのきんご)です。
 
しかし、與資平(よしへい)が入学した明治三十五年(一九〇二年)に辰野金吾(たつのきんご)は大学をやめていました。
そのせいか、與資平(よしへい)にとって授業(じゅぎょう)は平凡(へいぼん)でつまらないものでした。

 

それでも、勉強を続けた與資平(よしへい)は大学二年生の時に、成績(せいせき)が一番になりました。

 

その年の夏に実家(じっか)へ帰った與資平(よしへい)にうれしい知らせが待っていました。
岸(きし)との結婚話(けっこんばなし)です。
與資平(よしへい)二十三歳(さい)、岸(きし)十八歳(さい)の時でした。
與資平(よしへい)はまだ学生でしたが、二人は東京で暮(く)らすことになりました。

 

二年後、東京帝国大学工科大学(とうきょうていこくだいがくこうかだいがく)を卒業(そつぎょう)した與資平(よしへい)ですが、日露戦争(にちろせんそう) の後で景気(けいき)が悪く就職先(しゅうしょくさき)がなかなか見つかりませんでした。
與資平(よしへい)は大学院で勉強をしながら東京の辰野葛西設計事務所(たつのかさいせっけいじむしょ)で働(はたら)きました。
※日露戦争は当時の大国ロシア帝国(今のロシア連邦)と日本との戦争
 
事務所(じむしょ)には、あの辰野金吾(たつのきんご)がいました。

▲ 辰野金吾(たつのきんご)と東京駅
国立国会図書館ホームページより転載

辰野金吾(たつのきんご)は、東京駅の設計者(せっけいしゃ)。
その他、日本銀行本店や旧両国国技館(きゅうりょうごくこくぎかん)を設計。
「俺は頭が良くない。だから人が一する時は二倍(ばい)、二する時は四倍(ばい)必ず努力(どりょく)してきた」という努力家(どりょくか)でした。
 
まだ仕事のできない與資平(よしへい)はきびしい辰野(たつの)からしかられてばかり。
事務所(じむしょ)へ行くのが本当に嫌(いや)になることもありました。

 

仕事をやめたくなった與資平(よしへい)ですが、歯をくいしばって、がんばりました。
そんな日々が約三年間続(つづ)きました。
 
ある日、與資平(よしへい)の努力(どりょく)が認められ第一銀行韓国総支店(かんこくそうしてん)の設計(せっけい)を任(まか)されます。
第一銀行は当時(とうじ)とても大きな銀行でした。
 
休みの日にも塀(へい)をよじのぼっては事務所(じむしょ)へ通(かよ)い、一生懸命(いっしょうけんめい)に仕事をしました。

 

すると、あれほどきびしかった辰野先生(たつのせんせい)にほめられるようになりました。
仕事の楽しさを知った與資平(よしへい)はますますがんばりました。

 

さあ次は建築(けんちく)です。
與資平(よしへい)は自分の設計図(せっけいず)を手に第一銀行の現場(げんば)の監督(かんとく)として京城(けいじょう) へ向かいます。
二十八歳の時でした。
※京城は今の韓国の首都ソウル
地図

建物(たてもの)の土台をつくる工事の時のこと。
職人(しょくにん)たちが與資平(よしへい)の指示(しじ)を無視(むし)して作業(さぎょう)をしていたので與資平(よしへい)はどなりました。

 

その時、働(はたら)いていた人数は約(やく)二百人。
「どうやったらこれだけの人に自分の考えを分かってもらえるだろう」と悩(なや)みました。
夜中に中国の古い書物(しょもつ) を読み、人を動かす知恵(ちえ)も勉強しました。
※與資平は孫子の兵法書(兵を動かす方法を書いた本)などを読んだ
 
やがて
「みんなに使われ、ずっと残る丈夫(じょうぶ)な建物(たてもの)をつくりたいんだ」
という與資平(よしへい)の熱(あつ)い思いが職人(しょくにん)たちに伝わり、その後、工事は順調(じゅんちょう)に進みました。
 
そして明治四十五年(一九一二年)約(やく)四年もの長い間をかけて完成しました。
石造(いしづく)りの大きな建物(たてもの)でした。
若(わか)い與資平(よしへい)の苦労が実ったのです。
 
この建物(たてもの)は今でも使われています。
完成(かんせい)して約(やく)百年も過ぎようとしているのにすごいですね。

▲ 朝鮮銀行本店(ちょうせんぎんこうほんてん)

左右にドームがあるお城(しろ)のような建物(たてもの)です。
第一銀行京城支店(けいじょうしてん)は工事中に朝鮮銀行本店(ちょうせんぎんこうほんてん)と名前が変わりました。
 
朝鮮銀行本店(ちょうせんぎんこうほんてん)の仕事で大金を手に入れます。
設計事務所(せっけいじむしょ)を京城(けいじょう)に開いた與資平(よしへい)は確(たし)かな仕事で認(みと)められ、たくさんの仕事がきました。

 

銀行だけでなくデパート、学校、教会などもつぎつぎと建(た)て才能(さいのう)を発揮(はっき)しました。
 
與資平(よしへい)は家族(かぞく)を京城(けいじょう)によびよせ、幸せな日々を送ります。

▲ 馬車に乗(の)る與資平(よしへい)の家族(かぞく)

当時(とうじ)、移動(いどう)には馬車を使用(しよう)していました。
 
大正六年(一九一七年)、とても忙(いそが)しくなった與資平(よしへい)はドイツ人のアントン・フェラーを雇(やと)い、今の中国・大連(だいれん) に出張所(しゅっちょうじょ)を開きます。
※当時、大連は貿易都市としての発展の途中で、時代の先端を行く建物がたくさん建てられていました。(場所は5ページの地図にのっています)
 
しかし、大連(だいれん)のある満州(まんしゅう)は南満州鉄道会社(みなみまんしゅうてつどうがいしゃ) が大きな力をもっていていい仕事がありませんでした。
※当時、満鉄と呼ばれた南満州鉄道会社は大連に本社があり、とても大きな企業でした
 
フェラーからヨーロッパの進(すす)んだ建築(けんちく)について聞くうち自分の知らない建築(けんちく)やフェラーを育(そだ)てた科学技術(かがくぎじゅつ)の教育についてとても知りたいと思(おも)うようになりました。

 

大正九年(一九二〇年)大事件が起こります。
京城(けいじょう)の事務所(じむしょ)を火事で失(うしな)ってしまったのです。

 

前向きな與資平(よしへい)は世界をまわる決心をしました。
西洋建築をこの目で確かめよう

フェラーとともにアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど十七か国、九十あまりの都市をほぼ一年かけて、まわります。

▲ コロッセオ(イタリア)

イタリアのローマ時代(じだい)の建物(たてもの)で、與資平(よしへい)はとても気に入り朝昼晩(ばん)と3回も見学をしています。