[後編]

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第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)で負けたドイツ人は、特(とく)につらい思いをしているだろうと考えながら、與資平(よしへい)はドイツに向かいました。
しかし、そうではありませんでした。
ドイツの工場(こうじょう)では、たくさんの工業製品(こうぎょうせいひん)がつくられ、いきいきと働(はたら)く人たちを見て與資平(よしへい)は驚(おどろ)きます。
 
ドイツの学校を訪(たず)ねた與資平(よしへい)の目に映(うつ)ったのは子どもたちがモーターをつくるなど、楽しそうに科学を勉強する姿(すがた)でした。
 
日本でこんなに楽しそうな授業(じゅぎょう)は見たことがありません。與資平(よしへい)は、はっと気が付きます。

 

ドイツでは子どもたちが科学に興味(きょうみ)を持つような工夫(くふう)をしていました。
 
與資平(よしへい)は子どもの頃(ころ)の勉強のおもしろさを思い出しました。

 

欧米旅行(おうべいりょこう)から帰国した與資平(よしへい)は東京の溜池(ためいけ) に中村工務所(こうむしょ)を開きました。
※今の港区赤坂
 
大正十二年(一九二三年)九月一日のこと。
関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生。
この大震災(だいしんさい)は、死者・行方不明者(ゆくえふめいしゃ)約十四万人といわれる大災害(だいさいがい)でした。
関東大震災(かんとうだいしんさい)を身を持って体験(たいけん)した與資平(よしへい)は建築家(けんちくか)として、固(かた)く決意(けつい)をします。

 

與資平(よしへい)はこの後、地震(じしん)や火事にも耐(た)える丈夫(じょうぶ)な鉄筋(てっきん)コンクリート造(づく)りの設計(せっけい)に打ち込(こ)んでいきます。
 
與資平(よしへい)は学校建築(けんちく)にも力を入れました。

 

子どもが好(す)きだった與資平(よしへい)は丈夫(じょうぶ)な洋風の小学校を設計(せっけい)し、大評判(だいひょうばん)になりました。
関口台町小学校(せきぐちだいまちしょうがっこう)(東京都文京区(ぶんきょうく))など数多くの学校を設計(せっけい)しました。
光と風が入る明るく広い教室と廊下(ろうか)、トイレは水洗(すいせん)で、暖房(だんぼう)の設備(せつび)を入れ、シャワーまで備(そな)えた学校もありました。

▲ 関口台町(せきぐちだいまち)小学校

玄関(げんかん)の丸い柱が印象的(いんしょうてき)な鉄筋コンクリート造(てっきんコンクリートづく)りで、大正14年(1925年)に完成しました。
 
何もかもうまくいくように思えた與資平(よしへい)の人生に突然(とつぜん)の不幸(ふこう)がおそいます。
昭和九年(一九三四年)に、母と父が相次(あいつ)いで亡(な)くなったのです。

 

太平洋戦争(たいへいようせんそう)により東京での空襲(くうしゅう)が激(はげ)しくなり、多くの人が亡(な)くなりました。 
昭和十九年(一九四四年)六月、與資平(よしへい)は家族ともに浜松(はままつ)に疎開(そかい) します。
約(やく)四十年ぶりに故郷(こきょう)に帰った與資平(よしへい)に、悲(かな)しい知らせが届きます。
※空襲や火災をさけて移り住むこと
 
軍人(ぐんじん)となっていた次男の兼二(けんじ) がビルマで九月に戦死(せんし)したのです。
※「ビルマの竪琴」の著者竹山道雄は兼二と従兄弟(いとこ)関係にあたる。
 兼二の戦死はこの小説の執筆の動機となった。

 

與資平(よしへい)は兼二(けんじ)に渡(わた)すつもりだった建築(けんちく)の本を手に涙(なみだ)を流(なが)しました。
父の志(こころざし)をつぎ、早稲田大学(わせだだいがく)で建築(けんちく)を学んだ兼二(けんじ)は輝(かがや)かしい賞(しょう)を受賞(じゅしょう)しています。
大きな期待をしていただけに、與資平(よしへい)は生きる希望(きぼう)を失(うしな)います。
 
その半年後、與資平(よしへい)をずっと支(ささ)えてくれた妻(つま)の岸(きし)も亡(な)くなりました。
大切な家族を失(うしな)った與資平(よしへい)は、死んでしまいたいとさえ思うようになっていました。
 
浜松(はままつ)にもアメリカの爆撃機(ばくげきき)が爆弾(ばくだん)を落(お)とすようになり、そして、ついに大空襲(だいくうしゅう)が浜松(はままつ)を襲(おそ)います。
浜松大空襲(はままつだいくうしゅう)です。
浜松大空襲
▲ 浜松大空襲(はままつだいくうしゅう)(左)と写真を説明(せつめい)した図(右)

昭和20年(1945年)6月18日未明の空襲(くうしゅう)は、浜松市内(はままつしない)をあっという間に火の海に変えました。その被害(ひがい)は死者1,100人を超(こ)え、全焼(ぜんしょう)約16,000戸(こ)にのぼるすさまじいものでした。
與資平(よしへい)の設計(せっけい)した静岡銀行浜松支店(しずおかぎんこうはままつしてん)が残(のこ)っています。
 
昭和二十年(一九四五年)六月十八日 浜松大空襲(はままつだいくうしゅう)。
八月六日、広島に原爆投下(げんばくとうか)。
八月九日、長崎(ながさき)に原爆投下(げんばくとうか)。
 
破壊(はかい)された浜松(はままつ)の街(まち)には與資平(よしへい)の設計(せっけい)した建物(たてもの)が残(のこ)り、市民に希望(きぼう)を与(あた)えていました。
 
戦争(せんそう)が終(お)わってからも、與資平(よしへい)の心は悲しみがいっぱいで、とても設計(せっけい)をする気になれませんでした。
 
そんな與資平(よしへい)を友だちが元気づけようと家にやってきました。
旧制中学(きゅうせいちゅうがく)の同窓生(どうそうせい)だった川上嘉市(かわかみかいち)や科学教育で知り合った湯川秀樹(ゆかわひでき)など多くの友だちが勇気(ゆうき)を与(あた)えてくれたのです。
※川上嘉市は、日本楽器製造株式会社(今のヤマハ株式会社)元社長で浜松市名誉市民
※湯川秀樹は、日本人で初めてのノーベル賞を受賞した物理学者

 

子どもの頃(ころ)、父親が教育者になってほしいと言っていたことを與資平(よしへい)は思い出しました。
欧米旅行(おうべいりょこう)での体験と父の思い、そしてまわりの友人たちの励(はげ)ましが與資平(よしへい)を教育へと立ち上がらせます。
 
與資平(よしへい)は戦前(せんぜん)、実践女子専門学校(じっせんじょしせんもんがっこう) や日本大学で教えています。
興味(きょうみ)を持ってもらうため工夫(くふう)して楽(たの)しい授業(じょぎょう)をしていました。
與資平(よしへい)のまわりにはいつも学生たちがいて、とても慕(した)われていました。
また、自分のお金を出してまで科学教育を進めたこともありました。
※実践女子専門学校は今の実践女子大学
当時の授業風景授業風景
▲ 当時の授業風景(じゅぎょうふうけい) 写真提供:実践女子学園

昭和18年(1943年)頃、実践女子専門学校(じっせんじょしせんもんがっこう)の英語の授業風景(じょぎょうふうけい)です。
 
與資平(よしへい)が取組(とりく)んだのは、これまでの経験(けいけん)を伝(つた)え残(のこ)すことでした。
與資平(よしへい)の恩師(おんし)だった辰野金吾(たつのきんご)にならって、若(わか)い建築家(けんちくか)たちを惜(お)しむことなく応援(おうえん)しました。
 
この他、社会奉仕(ほうし)の活動(かつどう)にも力を注(そそ)ぎ、浜松地域(はままつちいき)の発展(はってん)に尽(つ)くしました。

 

昭和27年(1952年)静岡県教育委員(しずおかけんきょういくいいん)に当選(とうせん)(72歳)
昭和31年(1956年)同副委員長(ふくいいんちょう)に就任(しゅうにん)(76歳)
 
そして、晩年(ばんねん)は丈夫(じょうぶ)で使いやすい学校の建設(けんせつ)やドイツ流の科学教育を進めるため静岡県(しずおかけん)の教育に大きな成果(せいか)を残(のこ)しています。
 
與資平(よしへい)は昭和三十八年(一九六三年)、八十三歳(さい)で亡(な)くなります。
しかし、與資平(よしへい)の残(のこ)した建築(けんちく)は浜松市(はままつし)や静岡市(しずおかし)、韓国(かんこく)、中国で今も大切に使われ、市民に愛(あい)される街(まち)のシンボルになっています。