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徳川家康と三方原の合戦

【 解説 】
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解説「徳川家康と三方原の合戦」

夏目 琢史(国士舘大学文学部講師)

【戦国の覇者から「泰平の世」の「創業者」へ】

「群雄割拠」と呼ばれる戦国時代。戦国大名をはじめ多くの人びとが活躍した時代である。武田信玄、上杉謙信、織田信長、毛利元就、真田信繁・・・。歴史漫画や「大河ドラマ」などの常連であり、その生涯は人口に膾炙(かいしゃ)している。400年以上前の時代を生きた人びとがこれほど活き活きと今日まで伝わっている。これはとても不思議なことだ。こうした状況が成立するには、次の三つの要件が必要だろう。第一に、資料があること。第二に、その資料をもとに、語る人がいること。作家や講談師、歴史学者や歴史小説家がいなければ、彼らの生涯は知られない。第三に、そうした成果を享受する人びとがいることである。この三つの条件が揃ったとき、始めて“戦国時代の人気”という現象が成立する。当たり前の話であるが、実はこれはとても大切なことである。

さて、命がけの合戦の相次いだ戦国時代において「覇者」と呼べる人物は誰だろう。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三名であろう。そして、この三名の中で名実ともに「泰平の世」と呼ばれる江戸時代の基礎を築いたのは、徳川家康その人である。その意味で江戸時代の幕臣たちの認識に立って、私は家康のことを敢えて「創業者」と呼びたい。「創業者」は全国各地にその足跡を残した。幼い頃または晩年を過ごした駿府、天下分け目の決戦の舞台・関ケ原、日光東照宮のある日光。そして幕府を打ち立てた江戸。「創業者」の活動した範囲は広い。しかし、そのなかでも青年期の大切な17年間を過ごした浜松は「創業者」にとって最も大切な場所の一つであろう。
ところが、浜松時代の家康のことを示す資料はとても少ない。この時期の家康は、まだまだ「天下人」としての像は全くみえていない。強大な力を持つ武田氏との戦いの日々である。中でも家康の生涯にとって、大きな分岐点になったのは、信濃・甲斐の武田信玄との三方原合戦である。

【三方原合戦とは何か】

三方原の合戦について概説しよう。16世紀中ごろまでの遠江は、駿府に拠点を置いた戦国大名・今川義元の影響下にあり、ある程度の秩序が維持されていた。しかし、永禄3年(1560)5月、桶狭間において今川義元が織田信長により討たれると、今川氏の勢力は急速に衰退した。遠州の国衆たちの離反が相次ぎ、また、甲斐・信濃に勢力を張る有力戦国大名の武田信玄が、従来の今川氏との同盟を破棄し、永禄11年、駿河への侵攻を開始した。また、今川氏から離反し尾張の織田信長と同盟を結んだ徳川家康も、武田氏の侵攻に合わせて今川領国の遠江国へと進出。今川氏真の降伏をもって、永禄12年5月17日、戦国大名今川氏は滅亡した。

 元亀3年(1572)、武田信玄は美濃国・三河国・遠江国の三つの方面に総計3万名ともいわれる軍勢を派遣した。これに対し、同年12月22日、浜松に拠点を移していた徳川家康が、織田信長の派遣した援軍とともに、三方原台地にて行った最大規模の合戦を三方ケ原の戦いという。
 戦況は圧倒的に武田方有利で動き、結局、武田軍に対して徳川軍は10倍近い戦死者を出したともいわれ、多くの家康の重臣たちがこの戦いで戦死した。三方原合戦は織田・徳川両軍による武田軍との最初の合戦として歴史上名高く、さらに徳川家康が武田信玄に敗れた戦いとしても有名である。なお、三方原合戦における論点は、次の三つであろう。

  •  (1)武田信玄の進軍の目的
  •  (2)数で圧倒的に不利であった徳川家康が出陣した理由
  •  (3)合戦のおこなわれた場所・経緯等の詳細

 今後はこうした点についても様々な資料を駆使し、実証的に検証していく必要があるだろう。なお、三方原合戦について詳細に論述した文献としては、高柳光寿『三方原之戦』、小和田哲男『三方ケ原の戦い』などがあるのでご参照いただきたい。

【三方原合戦図とは】

 三方原合戦については、まだわかっていないことが本当に多い。第一、どこが主戦場となったかが曖昧である。諸説あるが、江戸時代に書かれた合戦図が大きなヒントを与えてくれる。しかし、三方原合戦の合戦図屏風の存在は今のところ知られていない。その中で、今回公開された「遠州味方原御合戦絵図」(浜松市博物館蔵)も貴重な史料の一つである。家康のことは「東照宮」と記されており、「御敗戦」の経緯がごく簡単にまとめられている。この史料によれば、徳川家康方の「参州軍」が、本坂峠より「出陣」したことになっている。村名・地名も簡略に記されており、地形図も実際とは異なる部分もある。「史実」を示す一次資料とは考えられないが、江戸時代の人びとのこの合戦についての認識を知る上で興味深い。こうした資料がいつ誰が何のために作成したのかという点について深く考察していくことは、歴史研究者の仕事であろう。歴史研究者にとっては、こういう資料がインターネットで手軽に閲覧できることは大変有意義である。

 なお、この史料にも家臣の名前がみられるが、初期の「創業者」家康を支えた家臣たちの存在が重要となってくる。今回公開された画像の中には、徳川家康の重臣たちを描いた図もある。次に見ていくことにしたい。

【徳川十六将図とは】

 「創業者」家康を支えた武将たちの様子をよく示しているものが、「徳川十六将図」である。今回の事業では、全部で5つの資料が公開されている。

 もちろん、この十六将図は、いずれも後の時代(江戸時代と推定している)に描かれたものであり、その点ではあくまで“イメージ”の産物である。しかし、こうして並べられてみると、その“イメージ”にも共通点や相違点があることに気付く。須藤晏斎画の「徳川十六将図」は、描かれた家臣たちの視線の方向に特徴がある。特に榊原康政、内藤正成が正面を向いていることに注目したい。また、家臣の着ている服装も異なり、それぞれの個性をよく描いている。また、ほかの「徳川十六将図」においても、家康の表情や年齢、家臣の配置も異なっていることが一目瞭然である。こうした資料を比較検討し、そこから歴史的背景を探っていくのも興味深い視点の一つといえるだろう。江戸時代から明治期にかけて「創業者」としての家康のイメージが、いかに創られてきたのかを考える上で大変興味深い資料である。

【デジタルアーカイブ事業の意義】

さて、冒頭で歴史が伝わるには、三つの条件があることを示した。本事業によって、歴史を叙述する者も、それを享受する者も、より手軽に誰もが資料にアクセスすることができるようになった。今後これをもとにしたユニークな作品が登場してくるだろう。しかし、そうしたユニークな作品はフィクションに過ぎない。それに満足できない人は、「浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」を通じてインターネットで簡単に現物の資料をみることも可能となった。歴史をめぐる環境は、今、新しい段階に入ったといっても大袈裟ではないかも知れない。