浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

解説「浮世絵」

佐野一夫(元浜松市文化財課長)

浮世絵

 浜松市美術館収蔵の浮世絵版画は、風景画、美人画、役者絵など多岐に及ぶ。作者も歌川広重をはじめ、葛飾北斎、渓斎英泉、歌川国貞、歌川国芳、月岡芳年など多彩である。あわせて三方ヶ原合戦を題材とした錦絵、遠江関係の寺社参詣道法案内図など遠江関係の版画が多く含まれているのも特徴である。

「浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」には、これらのうち歌川広重などの「東海道五十三次」シリーズの見附、浜松、舞坂、荒井(新居)、および遠江関係の寺社参詣道法案内図が登載される。本解説では、歌川広重「東海道五十三次」シリーズや、五雲亭貞秀「東海道写真五十三次勝景」、三代広重「東海名所改正道中記」を紹介する。

1 多くの浮世絵画家によって描かれた「東海道五十三次」

① 「東海道五十三次」シリーズの先駆者 葛飾北斎(1760-1849)

江戸時代は庶民の旅が普及・拡大した時代であった。17世紀末には伊勢参りや寺社参詣の旅が一般化し、19世紀になると急増した。旅行ブーム到来である。享和2年(1802)に刊行が始まった十辺舎一九『東海道中膝栗毛』はベストセラーとなり、続編も含めて文政5年(1822)まで全21編43冊が刊行された。こうした旅行ブームを受けて、浮世絵でも街道物が登場する。「東海道五十三次」といえば歌川広重が有名であるが、それより30年ほど前の文化年間に、葛飾北斎によって描かれた7種類の「東海道五十三次」シリーズが刊行されている。本アーカイブでは、浜松、舞坂、荒井を描いた5枚、および「秋葉山之春リ(尸に里)」(春興五十三駄之内)を登載する。

② 「保永堂版東海道五拾三次」が爆発的な人気 歌川広重(1797~1858)

 本名は安藤重右衛門、江戸城の消防組織である定火消同心の家に生まれた。父親は津軽藩岡部家から安藤家へ養子に入った人物である。文化6年(1809)に元服し、家督を継ぐ一方、15歳で歌川豊広に入門し、翌年「歌川広重」を名乗ることを許された。文政6年(1823)に家督を養祖父の嫡子(安藤家本来の血筋)である仲次郎に譲り、後見人として同心職を続けながら、浮世絵制作に励んだ。仲次郎が17歳となり定火消同心として勤め始めたことから、天保3年(1832)に同心職を辞し、絵師として専念することとなった。

 風景画家としての広重の名を高めたのは、天保4年から6年にかけて制作された「保永堂版東海道五拾三次」である。広重の東海道五十三次といえば、圧倒的な人気を博したこのシリーズを指すことが多いが、実は安政5年(1858)に亡くなるまでの約20年間に、二十種前後の「東海道五十三次」を描いている。

③ 歌川広重以後の「東海道五十三次」

歌川広重の「東海道五十三次」シリーズが大ヒットして以降、明治初年まで、多くの浮世絵作家によって「東海道五十三次」シリーズが盛んに描かれた。本アーカイブでは、二代歌川広重、三代歌川広重、香蝶楼(歌川)国貞、一勇斎(歌川)国芳、英笑(英蝶)、北尾重政、豊原国周、一光斎(歌川)芳盛、一魁斎芳人、大蘓(月岡)芳年、一恵斎(歌川)芳幾、周磨(河鍋暁斎)、歌川芳虎の作品を登載している。

2 浮世絵に書き込まれた情報を読む~表題、作者、彫師、版元印、検閲印~

浮世絵には、様々な文字情報が書き込まれている。「保永堂版東海道五拾三次」(版元の名から保永堂版と略称)、「隷書東海道五十三次」(表題が隷書で書かれている、隷書と略称)の「浜松」などを例として紹介する。

【表題】

保永堂版では「東海道五拾三次之内 濵松」と書かれ「冬枯ノ圖」との朱印がある。隷書では右上に「東海道 三十 五十三次 者満枩」とある。これが表題である。

【作者】

保永堂版では右端、隷書では左端に「廣重画」と書かれる。これが作者名である。浮世絵作者の名(画姓・画名)は、何度も変わる点が特徴である。歌川広重の場合、画姓は歌川であるが、画名が一遊斎、一幽斎、一立斎、立斎、歌重と変わる。狂歌入り東海道五十三次「浜松」では左上に「廣重画」とあるが、街道沿いの町屋(左端から3軒目)の暖簾に広重の別号である立斎を表す「○の中に立」の文字が書かれている。

【彫師】

保永堂版、隷書とも彫師の名は見えない。三代広重の東海名所改正道中記「見附 天竜川仮橋」では、右下の茶店(立場御休所)の柱に「彫定」と書かれた札がかかる。このように図中に彫師の名前が記される場合がある。

【版元印】

保永堂版では、右上の「廣重画」の下に朱印で「保永堂」とある。同じ保永堂版でも「荒井」では「竹孫」との朱印である。じつは「竹孫」は竹内孫八のことで、保永堂の店主であることから、どちらも版元は保永堂となる。隷書は、右下の画面枠外に「芝明神 丸清板」と記される。これは芝明神前の丸屋清次郎が版元であることを示している。

【検閲印】

寛政の改革以後、奢偧を戒め風俗を矯正しようとして幕府の出版統制が強化された。浮世絵もその対象となり、出版前の検閲制度が導入された。大きく極印の時代と改印の時代に分けられる。版元から選ばれた「行事」によって版下絵の段階で事前検閲が行われ、合格すると版木に彫られた許可印が極印(きわめいん、○の中に「極」の文字)である。業界団体による事前検閲の段階である。寛政2年(1790)から天保13年(1842)にかけて実施された。

 これに対して改印(あらためいん)検閲は、奉行の末端である「名主」によって行われ、統制がより強化された。天保14(1843)から明治8年(1875)にかけて実施された。名主印1つ、名主印2つ、名主印2つ+年月印、改印+年月印など、時期によって印の形や数、内容が異なる。
天保4年から6年にかけて制作された保永堂版「濱松」では、枠外右に極印を確認できる。一方、嘉永初年(1840年代後半)の隷書「者満枩」では右上の表題付近に、米良、渡辺と2名の名主の改印が押されている。こうした当番名主2人の改印を押す方法は、弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)の間に行われた。

3 歌川広重の東海道五十三次シリーズ~見附・浜松・舞坂・荒井~

① 歌川広重「膝栗毛道中雀」(天保初年)と『東海道中膝栗毛』

『東海道中膝栗毛』を題材として描いたのが「膝栗毛道中雀」(天保初年)である。シリーズ3枚のうちの1枚が「浜松泊」である。喜多八と弥次郎兵衛が、宿の女中が取り込み忘れた襦袢を幽霊と見間違って腰を抜かす場面が描かれ、左上に「ゆうれいとおもひの外に せんだくのじゅばんの のりがこわくおぼえた」と東海道中膝栗毛にある狂歌が書き込まれる。登載作品は左右端が欠落している。

②「保永堂版東海道五拾三次」シリーズ~見附・浜松・舞坂・荒井~

歌川広重の代表作である。版元は保永堂(竹内孫八)と「仙鶴堂」であり、のちに保永堂単独となった。この版元の名をとって「保永堂版東海道五拾三次」(略して「保永堂版」)という。天保元年(1830)に幕府の八朔御馬献上の行列に加わって京へ上った経験に基づいて製作したとの説があるが、実際に京へ上ったかどうかは疑問が持たれ、西へ行くにしたがって「東海道名所図会」の挿絵を参考とした図が増える点も指摘されている。

以下、見附・浜松・舞坂・荒井の画面構成・特徴を見て行こう。

【見附】

版元印は「保永堂」である。極印は、左枠外にある。表題に「東海道五拾三次之内 見附 天竜川圖」とあり、天竜川舟渡しの風景を描く。江戸時代の天竜川は架橋されず、舟渡しであった。東の池田村と西の富田村(現在の白鳥町)に、それぞれ3ヵ所の渡船場があった。天竜川は中州を挟んで東西2筋の流路があり、東を大天竜、西を小天竜と呼んだ。中州を挟んだ二瀬渡しの渡船業務は、大天竜は池田村が、小天竜は池田村と船越一色村が隔日で受け持った。旅人は、手前の川筋を舟で中州まで渡り、中州で舟を乗り換えて、次の川筋を渡るのである。

本図は、手前と中州の先の二筋の流れを描く。手前には客を渡し終えたと思われる2艘の舟と、中州のやや離れたところを歩く武士の一団を見送る2人の船頭が描かれる。一団には、荷物を背にした馬もいる。中州の先の川筋には行き交う5艘の渡し舟が見える。川の向こうには、墨の濃淡によって森が描かれているようだ。寛文元年(1661)刊の『東海道名所記』(浅井了意著)には、「(天竜)河の西の畔に、子安の森あり」と書かれている。こうした情景を表しているのかもしれない。

【浜松】

表題は「東海道五拾三次之内 濵松 冬枯ノ圖」である。版元印は「保永堂」であるが、印形が見附や舞坂と異なる。極印は左枠外にある。

 本図は、東から浜松城と浜松城下・宿場町の家並みを望む構図である。遠方に浜松城の櫓も見える。手前中央には松が大きく描かれ、その左側には焚火を囲む雲助らしい4人の男がいる。右側には菅笠に引回し合羽を着た旅人と思われる男、赤子を背負い箒を持つ女が描かれる。旅人や箒・松葉籠を持った人物は、以後のシリーズにも、しばしば登場する。
右手のやや奥まった場所に10本程度の松が生え、立て札や木柱が立っている。これは「ざざんざの松」といわれる。浜松八幡宮は天慶元年(938)に小沢渡の許部神社から遷座と伝わるが、この時、小沢渡から小松を持ち帰り、社領内に植えたのが「ざざんざの松」という。足利義教が永享4年(1432)富士見遊覧の際に「浜松の音はざざんざ」と謡ったといわれ、江戸時代には浜松の名所となっていた。そのため歌川広重や後継者たちの東海道五十三次には、浜松のランドマークとして登場する。

【舞坂】

表題は「東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景」である。左下の版元印は「保永堂」であるが、印形が見附や浜松と異なる。左枠外の極印はわずかに残る程度である。

 明応7年(1498)の明応地震・津波などによる砂州の流失や地盤沈下によって、以前は浜名川によって外海へつながっていた浜名湖が、外海と直接つながった。以後、今切は舟渡しとなり、江戸時代には舞坂宿と新居を結ぶ渡船路が開設された。宝永4年(1707)の宝永地震・津波による再度の新居宿移転後は渡船路が6㎞となり航路の危険性も増したため、弁天島の北側に波除け杭を打って渡船路を確保した。こうした状況は幕末まで続いた。
こうした点を踏まえて本図をみると、左下手前には波除け杭の列が描かれている。その右の松が生えた堤は、舞坂宿を津波や高潮から守るための「宿囲」の土堤の一部であろう。その向こうが舞坂宿の渡船場である。莚で作った帆がみえる。目を湖上に転じると、漁の様子が描かれる。漁船や湖に入って漁をする漁師が認められる。
遠方右手には雪を戴く富士山が見える。そして中央には高く、険しい山がそびえる。実際にはこうした高い山はない。寛政9年(1797)に刊行された『東海道名所図会』の挿画を参考に描いたとの説がある。この高い山は、その後のシリーズにも、しばしば登場する。

【荒井】

表題は「東海道五拾三次之内 荒井 渡船之圖」である。右下「廣重画」の下の版元朱印は「竹孫」である。これは保永堂を営んだ竹内孫八のことで、「保永堂」印と同じ意味である。左枠外には極印が認められる。

 本図は、今切渡船路を新居へ向かう2艘の舟が大きく描かれる。前を行くのは、家紋入りの幔幕を張り巡らせた大名の御座船である。帆を張り、吹き流しが風にたなびき、2本の毛槍を立てている。船上に人の姿は見えない。
後に続く船は、供の中間たちを乗せた渡し舟である。莚で作った粗末な帆は、舞坂でも描かれている。渡し舟は全体が描かれているわけではないが、2人の船頭と6人の中間がいる。大あくびをする者、居眠りをする者など、つかの間の休息のくつろいでいる様子が伝わってくる。風にはためく舳先の幟には「○の中に竹」の字が藍地に白抜きで染められている。これは版元の竹内孫八の名である。
これら2艘の舟が向かう先には、今切(新居)関所と新居宿の町並みが描かれる。関所の手前が渡船場である。右手には上陸した通行人が取り調べを受ける面番所、その手前に常夜燈がある。通行許可が出た通行人が新居宿へと向かう大御門も描かれ、今切(新居)関所の配置がおおよそわかる。今切(新居)関所は、その後のシリーズの多くに、新居のシンボルとして登場する。新居関所は国指定特別史跡であり、安政2年(1855)に再建された面番所が残る。また渡船場(船着き場)や大御門、高札場が再現されている。

③ 歌川広重 その後の東海道五十三次

 広重は、保永堂版東海道五拾三次の大ヒット後、没するまでの約20年間に、二十種前後の東海道五十三次を制作した。シリーズ名(略称)には、表題の字体からとったもの(行書、隷書)、版元の名からとったもの(山庄版、有田屋版、蔦屋<蔦吉>版)、他の作家との共作(東海道五十三対、双筆)などがある。各シリーズの画題は保永堂版をほぼ踏襲しながら、定型化していった。以下、各シリーズに描かれた見附、浜松、舞坂、荒井のイメージをみていこう(シリーズ名は略称を用いる)。

【見附】

行書、狂歌入、隷書、五十三次名所図会は表題に「天龍川舟渡し」と明記する。表題はないが、山庄版、有田屋版、蔦屋版、人物、東海道五十三図会(美人東海道)にも、天竜川舟渡しが描かれる。いずれも中州と幾筋かの川筋が描かれ、行き来する渡し舟が描かれている。

【浜松】

行書、五十三次名所図会は表題に「ざゝんざのまつ」と書き入れる。いずれも浜辺の松である。東海道五十三図会は「芸人道中」との表題だが、浜辺の松を描く。表題はないが、山庄版、有田屋版、蔦屋版、隷書、人物、双筆も浜辺の松を描くという点は共通する。浜松のイメージは、「浜辺の松」で定着していったことがわかる。

では描かれた浜辺の松は、表題のように「ざゝんざのまつ」なのだろうか。小沢渡に「音羽の松」がある。江戸時代には、ざざんざの松の兄弟松として、広く知られた松であった。各シリーズに描かれた浜辺の松は、この音羽の松をイメージしたものではないだろうか。
描かれた人物を見ると、松葉籠や熊手を持った人物が描かれることが多い。旅人や雲助、宗匠も登場する。題材や登場人物が、保永堂版以来、踏襲されていったことがわかる。
一方、例外的に浜松城下の風景を描いた作品もある。狂歌入である。背後に浜松城があり、宿場の往還には、駕籠、馬、徒歩などの旅人が行き交う様子が描かれている。

【舞坂】

行書、狂歌入、五十三次名所図会、東海道五十三図会、双筆の表題は、「今切海上舟渡」、「今切海上風景」等で、いずれも今切渡船を画題とする。表題のない他のシリーズも、今切渡船を題材にしている点は共通する。

 画面構成もほぼ同様である。中央に高い山を配し、手前には波除杭や、松の生えた砂州を、湖上には帆掛け舟や漁船などを描いている。渡船場や船上の旅人が描かれることも多い。保永堂版の構図が踏襲された作品が多いといえよう。

【荒井】

行書は「海上壱里半 舟渡之圖」、五十三次名所図会は「阿ら井 渡舟着岸御関所」、美人東海道は「名ぶつ蒲焼」との表題である。行書、美人東海道は新居宿へ向かう渡船を描く。美人東海道は関所らしき建物を描くが、行書では認められない。五十三次名所図会では近景に船着き場と新居関所の常夜燈、面番所、大御門、柵を描く。湖上に帆掛け舟が浮かび、遠方に富士山を描く。

 表題がないが、山庄版、有田屋版、人物は今切舟渡の風景を描き、前方の新居宿町並みの中に関所らしい建物が描かれる。ほぼ同じ構図の蔦屋版では「御関所」と記される。狂歌入は五十三次図会と同じく、近景に船着き場と新居関所の常夜燈、面番所を描く。湖上に帆掛け舟が浮かぶ。隷書も同様に近景に新居関所を描く。新居は、舞坂と同様に今切渡船を描くが、新居関所を取り入れている点が特徴である。

4 幕末から明治初期の東海道五十三次~継承と新たな時代の到来~

歌川広重が描いた東海道五十三次のイメージは、歌川派の作者に影響を与えた。二代広重、三代広重、歌川芳重、歌川芳虎などの作品には、歌川広重と同様の画題を取り入れている作品がみられる。一方で、時代の変化に対応した新たなイメージも盛り込まれるようになった。五雲亭貞秀と三代歌川広重の作品を紹介しよう。

【五雲亭貞秀「東海道写真五十三次勝景」】

万延元年(1860)製作、折帖、江戸から京まで鳥瞰図風に描写している。全4冊。本冊は島田から白須賀までの16枚が綴られている。表紙は縦235mm、横145mm。浜松周辺では、東海道、本坂通、秋葉道(掛川~森・犬居~秋葉山~熊~巣山~鳳来寺の道筋)の3つの街道が描かれ、東海道や秋葉道では往来する旅人の姿も描かれる。東海道沿いでは天竜川の2筋の流れ(大天竜と小天竜は逆に記載)が描かれ、池田と一色の間の渡場、長森と中ノ町の間の昔の渡場が記される。番所・木戸や高札場が描かれる浜松城下を過ぎると、若林から高塚にかけて広がる蓮池が描かれる。舞坂宿西端に渡船場(雁木)があり、弁天島の北側には波除け杭によって区画された今切渡船路、荒井では船着き場と関所が描かれる。

本坂通では、表題に「姫街道」、絵図中では「本坂越道」とあるのが注目される。幕末には、本坂通が姫街道とも呼ばれるようになったことを示す。また「池田へ近道」は本坂通の古い道筋で、見附・池田間の最短ルートであったが、公的通行は禁止されていた。

【三代歌川広重「東海名所改正道中記」】

明治8年(1875)制作。江戸時代的風景と明治の文明開化による風俗とが混在して描かれる。従来の風景は「浜松 名所ざざんざの松」、「舞坂 今切海上」である。「あら井 浜名の湖」も江戸時代的であるが、関所は描かれていない。対照的なのが「見附 天龍川仮橋」である。明治7年(1874)に天竜川の両端に欄干の付いた仮橋が設置され、川の中央部分は船橋で繋がれたが、その東側の仮橋が描かれているのである。人力車や傘も新しい要素といえよう。

本シリーズで新たに加えられた「堀どめの渡し 通船立場」と「日野岡 新所の景」は、堀留運河の東と西の乗降場を描いた作品である。明治4年(1871)に堀留運河が開通し、浜名湖を通って浜松と新所を結ぶ航路が開設された。鉄道が開業するまでは東海道の陸送をしのぐ活況を呈したという。堀留立場を行き交う船、日野岡の舟着き場、洋装の人物などが、新しい時代の到来を活写している。