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涅槃図

【 解説 】
『涅槃図』一覧画面

解説「涅槃図」

竹林史博(山口県山口市 曹洞宗 龍昌寺住職)

Q1 涅槃図(ねはんず)とは何ですか?

 お釈迦様の入滅の場面を描いた絵図で、掛軸表装がほとんどです。2月15日の涅槃会の本尊として祀ります。また現存する日本仏画中最多といわれています。

Q2 涅槃図のルーツは?

 当然、お釈迦様の国インドに始まります。しかしインドでは絵画ではなく浮彫を含めた彫刻作品で、お釈迦様一代の各場面が製作されています。やがて仏教が中国に伝わると、敦煌遺跡に涅槃図の壁面が描かれた如く絵画化がおこり、やがて掛軸となり、日本に招来されます。

 また、日本ではインドと違って、人間としてのお釈迦様よりも、人間を超越した覚者(仏)として、彫刻で誕生仏、絵画で涅槃図が製作され、この二場面で仏伝を代表するようになります。

Q3 日本の最も古い涅槃図は?

 日本での涅槃会は奈良時代に遡りますが、現存する最古の涅槃図としては、和歌山県高野山の金剛峯寺の涅槃図〔応徳3年(1086)〕です。

Q4 涅槃図は時代の変化がありますか?

 1978年、『涅槃図の名作』(京都国立博物館)で、中野玄三先生が、日本の涅槃図を第一形式、第二形式に2分類されました。

 まず第一形式は、平安時代から鎌倉前期までの涅槃図に共通した構図です。その特徴は、お釈迦様を大きく描き、会衆や動物の数が少なく、宝床(寝台)のお釈迦様の御足の側が見える構図です。今回紹介する隨縁寺本がこの宝床の形を継承しています。
 これに対して第二形式は、鎌倉時代に現われたもので、お釈迦様のお姿も「頭北面西右脇臥」を基本とし、会衆や動物の数が増え、宝床がお釈迦様の頭部の側が見える構図となります。この第二形式は、時代が下るに従って様々な作品が次第に融合し合い、江戸時代に至ると日本独自の形式として主流を成すに至ります。

《正泉寺本の特徴》

(A)東福寺本と類似点

 正泉寺本は地方では稀にみる絹本の大幅(タテ約390㎝×ヨコ約200㎝ 紙本)で、これを所有する正泉寺の寺格の高さがうかがわれます。構図をみると、お釈迦様は蓮華台を枕にされ、右手を前に出し、絵の周辺部は「描(かき)表具」とも「描表装」ともいわれる手描き仕上げです。これらは、江戸時代に「天下無双」とされた京都の臨済宗大本山東福寺の明兆(兆殿司とも)作品と共通するもので、その影響がみられます。江戸時代、東福寺本の人気は絶大でした。正泉寺本裏書きには「京都五条万寿寺西通高倉面西江入町中西善之亟家信筆」とあり絵師は京都在住、実際に明兆作品を目にしていても不思議ではありません。

 また開眼法要は「元禄17歳(1704)次甲仲春十五日」とあり、今から310数年前の陰暦の涅槃会に厳修されたことがわかります。

(B)登場人物に名前を付記

 正泉寺本のもう一つの特徴に、登場人物に名前を付記した「名前入り涅槃図」である点が挙げられます。東福寺本の影響を受けた作品はかなりの数に上りますので、今後正泉寺本は大いに活用されるものと思われます。以下、主要人物を紹介しておきます。

【お釈迦様】

大乗仏典では仏の身長は一丈(じょう)六尺(約5m弱)、略して「丈六の仏身」といわれます。すると普通の人々の身長の約三倍。涅槃図でもお釈迦様と人々の身長の比率がだいたいその位に描かれている作品が多いものです。

【摩耶夫人】

お釈迦さまの生母。経典に「仏を出産した功徳で、7日後に刀利天(とうりてん)に生ず」とあります。今、その刀利天から息子のもとへ下降されています。

【迦葉童子(かしょうどうじ)】

『涅槃経』でお釈迦様に数多くの質問をします。そのため「能問(のうもん)第一」と称され、お話のできる宝床近くが指定席。また「仏法は12歳の子の素直さで求めよ」との教えを示すため、涅槃図では唯一人童子の姿です。

【老女】

経典に「百歳の媼(おうな)、貧しくて捧げ物なきを悲しみ〝未来いずこにありとも、常に仏を拝することを得しめよ〟と嘆き、仏の御足を涙で濡らした」とあります。江戸時代の名前入り涅槃図のほとんどは「老女」と記されています。

[十大弟子(10人中6人が登場)]
【阿難(あなん)尊者】

「多聞第一」、お釈迦さまの侍者を25年間務めた。師を失い昏倒、介抱されている姿は、ほとんどの涅槃図に描かれる。

【阿那律(あなりつ)尊者】

「天眼第一」、比丘中の最長老で、摩耶夫人の先導役。一方で阿難の介抱と大忙し。

【羅睺羅(らごら)尊者】

「密行第一」、お釈迦様のご子息。だいたい本図の如く宝床上部に、高貴な姿で描かれる。

【目連(もくれん)尊者】「神通第一」
【迦栴延(かせんねん)】「論議第一」
【須菩提(しゅぼだい)】「解空第一」

[その他の主要人物]

【須陀長者】

山盛の供物を捧じており「純陀長者」のことと思われる。この茸料理がお釈迦さまの発病の原因になった、とされる。

【月蓋(がっがい)長者】

この長者が鋳造した阿弥陀三尊が伝来し、信濃の善光寺の本尊となったとの伝承がある。

【須達(すだつ)長者】

結孤独(ぎっこどく)長者の本名。大金を投じて祇園精舎を建立し、お釈迦さまに寄進。

【耆婆(ぎば)大士】

名医として名高く、お釈迦様の主治医。

【維摩大士】

「維摩の一黙」、維摩経で知られ、禅宗の涅槃図によく登場する。

《龍秀院本の特徴》

(A)独創的構図-海北友賢作品に類似

 龍秀院本(タテ約390㎝×ヨコ約206㎝ 紙本)の特徴は、何といっても絵師の型破りな遊び心が画面全体に横溢(おういつ)していることでしょう。虚空には天人や鳳凰が舞い、梢には猿や小鳥。この特異な構図は海北友賢作品以外にはほとんど見られないものです。また友賢作品は海と多くの海洋生物を描きますが、後述するように、この点も龍秀院本との類似性が見出せます。ただ残念なことに龍秀院本の製作年代、絵師の特定には至っていません。

(B)跋堤河(ばっだいが)に魚の群が!!

 涅槃図では、沙羅双樹の木の間隠れに跋堤河を描くのが定法です。しかし、その河に龍秀院本の如く魚の群が参集するという構図は、全くほかに類例の無いもので、絵師の大胆にして自在な発想に驚かされます。

 前述の如く海北友賢作品も画面下に海を描きますが、龍秀院本では跋堤河そのものを海に見立てた如くです。こうした自由奔放な画風は、地元の腕に覚えのある町絵師の場合がほとんど。特にウナギをはじめ魚貝類が多く描き込まれているのをみると、この絵師は浜名湖近辺に住んでいたとしてもおかしくありません。逆巻く波で表現される跋堤河も、龍秀院本ではゆるやかな水紋が続き、まるで浜名湖の潮のうねりを見るようです。

(C)弁天様登場

 龍秀院本は、いつもの中央にいる阿難尊者が隅のほう。絵師の関心は、仏伝物語にないことが明らかです。逆に登場人物はユニークで、宝床上の中央に三味線を持つ弁天様が登場。これもほかではまず見られない光景。白衣観音(?)も珍しい。「王」の冠の二人は、涅槃図では帝釈天と閻魔大王、二人同時出演とは!

 さらにお釈迦様の足元の老女が白布で涙を拭っています。足疾鬼(そくしつき)も。これも他ではまずお目にかかれないユーモア溢れる演出です。摩耶夫人の侍女が天女ではなく、唐子風であることも目を引きます。

(D) 暫定日本一?

 龍秀院本は、動物表現も異彩を放っています。画面左下、背ビレを持つ牛の如き動物は、一体何なのでしょうか? また白象の上の、口ヒゲと尾がフサフサの猫? この珍獣は『写生獣図画』〔享保4(1719)〕の「麝香(じゃこう)猫」と酷似しており、おそらく麝香猫。この珍獣が涅槃図に登場するのは江戸中期以後で、時代判定の一つの目安となります。

また先に紹介した海北友賢の超大作(タテ6m×ヨコ4m)のある京都真如堂の作品解説に、「画面下部全域には多くの禽獣や水生動物等、その数は127種類にも及び、涅槃図では日本最多であろうとされています」とあります。
しかし、龍秀院本を数えてみると何と195種類、真如堂本を圧倒しています。これは暫定日本一か!もっとも全国の涅槃図が調査されているわけではありませんので、今後さらに多数の描き込みの涅槃図が発見される可能性があります。この龍秀院本の公開がこうした涅槃図の新たな楽しみ方のきっかけになれば幸いです。

《随縁寺本の特徴》

(A)昭和10年頃の大修復

随縁寺本(タテ約200㎝×ヨコ約180㎝ 紙本)も製作年代、絵師不詳。昭和10年頃に大修復がなされ、雲や宝床などに鮮やかな色彩が見られるのは、その時の補色。また画面両端が切り詰められており、原画では、おそらく沙羅双樹の幹もちゃんと描かれていたのでしょう。古画の修復ではよくみられる手法です。

(B)宝床が第一形式

随縁寺本でまず目につくのは、宝床が第一形式(宝床の右側面が見える構図)になっていること。おそらく参考とした涅槃図が古いものだったのでしょう。

また金色の菩薩衆がおだやかな表情であることも印象的です。お悟りを開かれている菩薩衆は、たとえお釈迦様の入滅でも動揺することがないとの高い宗教的境地を表現したものといえます。

(C)猫がひっそりと

動物達もなべてお釈迦様の慈愛に包まれたようなおだやかさですが、その中に涅槃図には描かれないという猫が目立たぬように、ひっそりと侍(はべ)っています。さて、どこにいるか?探してみたくなりませんか?