古代、日本から新羅に派遣(はけん)された公式の使節(しせつ)。特に7世紀後半から8世紀前半、遣唐使(けんとうし)を派遣せずにいた時期には、日本の政治(せいじ)・制度・文化などに大きな影響(えいきょう)を与えました。安芸津の風早の浦で万葉歌を2首詠(よ)んだのは、天平(てんぴょう)8年(736)に派遣された遣新羅使です。
●天平8年(736)の遣新羅使
次の事柄(ことがら)により、天平8年の遣新羅使は、悲運(ひうん)の使節団だといわれています。
・途中(とちゅう)、嵐(あらし)に襲(おそ)われ漂流(ひょうりゅう)する。
・両国の外交関係(かんけい)が最(もっと)も緊張(きんちょう)した時期だったので、目的である国書を手渡(てわた)すことができなかった。
・復路(ふくろ)(帰り)で大使阿部朝臣継麻呂(あべのあそんつぐ(ぎ)まろ)が死亡(しぼう)。
・副使(ふくし)大伴宿禰三中(おおとものすくねみなか)が病気になり遅(おく)れて帰京。
困難(こんなん)だった船旅
当時の航海(こうかい)は、途中(とちゅう)で遭難(そうなん)したり病(やまい)に倒(たお)れたりすることも多く、全船・全員そろって帰国することはほとんどなかったそうです。
その中でも、天平(てんぴょう)8年(736)の遣新羅使(けんしらぎし)たちの旅は、大変過酷(かこく)なものだったといわれています。
まず、往路(おうろ)(行き)で嵐(あらし)に襲(おそ)われ漂流(ひょうりゅう)しました。このため船の修理(しゅうり)も含(ふく)め、予定よりも大幅(おおはば)な遅(おく)れをとってしまったようです。
また『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、停泊地(ていはくち)の大宰府(だざいふ)(遣新羅使や遣唐使(けんとうし)の宿泊施設(しゅくはくしせつ)がありました)では、天然痘(てんねんとう)だと思われる伝染病(でんせんびょう)が大流行していました。それが原因かどうか定かではありませんが、一行の中には多数の病死者が出たそうです。復路(ふくろ)で大使が死亡し、副使(ふくし)も病のため、かなり遅れての帰京になったとのことです。
この遣新羅使の目的は、新羅が日本に対する外交政策(せいさく)を変えた事に対して、牽制(けんせい)する(警告(けいこく)する、圧力(あつりょく)をかける)国書(こくしょ)を渡(わた)すためでした。しかし両国の関係(かんけい)が最(もっと)も緊張(きんちょう)した時期での交渉(こうしょう)であり、うまくはいきませんでした。
風早の浦で歌を詠(よ)んだのは、そんな命がけの航海をして、責任(せきにん)ある重要(じゅうよう)な交渉に向かった遣新羅使たちです。