風早の浦ってどこだろう?

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 遣新羅使(けんしらぎし)が停泊(ていはく)した「風早の浦は三津湾(みつわん)内のどこであるのか?」残念(ざんねん)ながら、その答えは出ません。小松原(こまつばら)か、京極神社付近(こんごくじんじゃふきん)か、当時は入り江だった山口付近か、または別の場所かもしれません。
 風早の浦が遣新羅船の停泊地となったのは、風よけのできる穏(おだ)やかな海という自然的要素(しぜんてきようそ)も大きいのですが、この地に住む風早氏に力があったからだとも考えられています。
 風早氏について簡単(かんたん)に説明(せつめい)します。
 6世紀頃伊予国(いよのくに)(現在(げんざい)の愛媛(えひめ)県)から風早氏の一派(いっぱ)が移(うつ)り住み、そこが風早という地名になったといわれています。
 また風早氏は『廣島縣神社誌(ひろしまけんじんじゃし)』によると、水駅(すいえき)(水路の駅)の長(ちょう)など大事な職(しょく)を勤(つと)めていました。
 

【風早氏がこの地に来たときより崇敬(すうけい)していた「三大妙見(さんだいみょうけん)神社」】


【風早氏が豊後(ぶんご)国宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)より分霊(ぶんれい)を迎(むか)えまつったといわれる「祝詞山八幡神社」】

 そして『安芸津風土記第4号』によると、風早の浦沿岸一帯(えんがんいったい)は風早氏が支配(しはい)していたそうです。村は経済的(けいざいてき)にもかなり発達(はったつ)して、物資(ぶっし)の補給(ほきゅう)も便利(べんり)だったと思われます。安全で豊(ゆた)かだったため、船の停泊(ていはく)に適(てき)していたのではないでしょうか。
 風早氏が奈良(なら)時代から平安時代初期(しょき)にかけて、力を持っていたと思われる例(れい)がほかにもあります。
 遣新羅使が風早の浦で歌を詠(よ)んでから約(やく)100年後の833年頃(ころ)、風早の住人風早審麿(あきまろ)(冨麿(とみまろ))が親孝行(おやこうこう)で徳(とく)のある人だと賞(しょう)され、位(くらい)を授(さず)けられ、税(ぜい)を免除(めんじょ)されました。このことは『続日本後紀(しょくにほんこうき)』に書かれています。『風早風土記』によると、国が編纂(へんさん)した歴史書(れきししょ)に一(いち)地方の住民のことが取り上げられていること、また位を授けられていることからも、風早氏は一般の庶民(しょみん)ではなく、豪族(ごうぞく)だったのではないかと推測(すいそく)されるとのことです。
 

【審麿(あきまろ)神社】

 
審麿(あきまろ)は、病気の親に食べさせる魚を風早、山口の水門で釣(つ)ったと昔より代々口伝えされてきました。
そのことで、当時山口は、海だったことがわかります。
 
つらい旅の中、風早の浦に船泊りした遣新羅使達は、何を思ったんかのう。

風早の浦で詠まれた万葉歌2首、どんな歌か知りたくなったじゃろ?