安芸津(風早の浦)で詠まれた2首の歌は、遣新羅使船が難波津(なにわづ)を旅立つ時に詠まれた贈答歌(ぞうとうか)と響(ひび)きあっているといわれています。
出立(しゅったつ)時に詠まれた歌
君(きみ)がゆく海辺(うみべ)のやどに霧立(きりた)たば
吾(あ)が立ち嘆(なげ)く息と知りませ(巻15・3580)
(歌の意味)
あなたが新羅(しらぎ)国へ行かれる途中(とちゅう)、泊まられる海辺の宿(やど)のまわりに霧(きり)が立ちこめていたら、その霧は私があなたのことを恋しく思ってつくため息が霧になったものだと思ってください。
この歌は祝詞山八幡神社(のりとやまはちまんじんじゃ)の「万葉歌碑説明碑」に刻(きざ)まれとるよ。新羅に旅立つ夫へ、妻が贈った歌なんと。危険な旅じゃったけん心配じゃったろうね。 |
安芸津で詠まれた歌
~風早の浦に船泊して夜作れる歌 2首~
1.わが故(ゆえ)に妹(いも)嘆くらし風早の
浦(うら)の沖辺(おきへ)に霧(きり)たなびけり(巻15・3615)
(歌の意味)
旅に出た私を恋しく思って嘆いているらしい。風早の沖の方に霧がたなびいている。
あの霧は妻が私を思ってついた、ため息が霧になったものだろう。
2.沖つ風(おきつかぜ)いたく吹(ふ)きせば我妹子(わぎもこ)が
嘆(なげ)きの霧に飽(あ)かましものを(巻15・3616)
(歌の意味)
沖の方に霧がたなびいている。妻が私を恋しく思ってついた、ため息が霧になったものだろう。沖の風がひどく吹いて霧をこちらへ運んでくれたら、愛する妻のため息の霧を心ゆくまで堪能(たんのう)したいものだ。
風早の浦で詠まれたとされる万葉歌2首について、安芸津のことに詳しい原田欣二(はらだきんじ)さんからお聞きしたことを紹介(しょうかい)します。
原田さんは以前、万葉集の研究で有名な犬養孝(いぬかいたかし)先生が、大阪大学の学生を連れて安芸津に来られた時のことを、次のように語っておられます。
「祝詞山八幡神社の一段上の境内(けいだい)から犬養先生が、大勢の学生を前にして風早の2首を朗詠(ろうえい)されました。その歌を、風土(ふうど)に合わせ現地で唄われる先生を見たとき感激(かんげき)しました。1200年以上前の時代にもどしてみて、歴史の中に置いてみて、しかもその風土の中に置いてみると、歌が生き生きとしてくるのです。だから、安芸津町民はこの歌を大切にして、町の宝物(たからもの)にして次世代の人々に受け継(つ)ぎ伝えねばならないと強く思います。」
万葉歌2首は安芸津町にとって大いなる贈(おく)り物となりました。
2首を受け継ぎ大切にしていくことで、生まれ培(つちか)われるものがあります。「万葉人のもつ純朴(じゅんぼく)で素直な思いやりの心と、万葉歌をきっかけに生まれ育ったふるさとへの誇(ほこ)りと愛情。この心を忘れないように、歌を大事にしていってほしい。」
原田さんの言葉は、ふるさとの良さに気づき、誇りを持って守っていってほしいという願いのように感じました。
<犬養 孝先生>
万葉集研究の第一人者。日本全国の万葉ゆかりの地をすべて訪(おとず)れ、歌の素晴(すば)らしさを伝え続けられました。確立(かくりつ)した「万葉風土学」は万葉を地域(ちいき)おこしに結びつけ、各地で『犬養節(いぬかいぶし)』と呼(よ)ばれる独特(どくとく)の万葉朗唱(ろうしょう)を披露(ひろう)して多くの人に万葉の世界を広めました。安芸津にも何度も足を運ばれています。祝詞山八幡神社(のりとやまはちまんじんじゃ)で、独特の『犬養節』で唄(うた)われた2首は、原田さんをはじめとして沢山(たくさん)の人達の心に残(のこ)るものとなったようです。
犬養 孝先生(1907~1998)略歴(りゃくれき)
1962年文学博士(はかせ) 1970年大阪大学名誉(めいよ)教授(きょうじゅ) 1981年甲南(こうなん)女子大学名誉教授
出典:「万葉の里」犬養 孝(2007)和泉書院
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