監修のことば

 新編弘前市史監修者
     乕尾俊哉

 

 弘前は、私にとって第二の故郷で、大変お世話になった。光栄にもその市史監修の任に当たることになって、報恩の機を与えられたことに感謝の誠を捧げる。
 以下、私が最初の編集委員会の席で申し上げたことの中から、二点を記して監修のことばにかえたい。
 一 通史を書くということは、大変難しい。バランスのとれた正確な記述をと心掛けても、史料の少ない時代については、推量に頼らざるを得ない上に、書けることには限度がある。逆に史料の多い時代を、限られたスペースのなかで万遍なく記述しようとすると、メリハリのないものになってしまう。どうしても思い切った省略が必要となる。かつて大田南畝(蜀山人)は、近江八景を一句のうちに詠みこんでくれと所望されて、少しも騒がず、「七景は霞にかくれ三井の鐘」と応じた。これはすこし極端な例であるが、しかし省略のお手本である。個人の著作ならいざ知らず、市史の場合ここまでの省略は許されないであろうが、しかし、少なくともこういう心構えは必要であろう。省略とミニチュア化とは異なるのである。
 二 個人の著作ではないという点では、文章についてもあまり個性的な表現は避けなければならない。平明で正しく美しい日本語こそ我が新編弘前市史にふさわしい。夏目漱石の文章は個性的で魅力に富むが、しかし、漱石先生が多用する「~と一般である」「~すべく余儀なくされる」などの表現は、日本語としてあまり美しいとは言えない。美文調は困るが、さりとて、こういう個性的な文章は避けなければならない。しかし、このことをあまり強調すると、平板で退屈な記述を生み出す要因となる。ここでも別の意味で、バランス感覚が要求される。