この年八月中旬、玉造郡を発した官軍は松山の道を経由して磐井郡中山の大風沢(おおかぜさわ)に到着(史料四五〇)。ここで小松(こまつ)柵を守る安倍宗任(あべのむねとう)とその叔父良昭(照)(りょうしょう)の軍と戦闘になった。清原軍と坂東の精鋭を集めた頼義軍は強く、激戦の末に小松柵は炎上し、宗任は敗走する。宗任軍の死者は六十余人、負傷兵は数知れず、官軍は死者一三人、負傷兵は一五〇人であったという。
九月、貞任が頼義の本営に奇襲をかけたが(史料四五一)、粮食(りょうしょく)が足りず長期戦を避けたかった官軍は、好機到来とばかりに、全軍を挙げて応戦した。貞任が退却をはじめても追撃の手をゆるめず、そのまま石坂(いしざか)柵・衣川関・藤原業近(なりちか)柵と落としていった。