泰衡は、阿津賀志山の陥落を知ると、国分原鞭楯の本陣を棄てて、一戦も交えずに北へ敗走した。一方の国衡は、奥州一の名馬と呼ばれた「高楯黒」にまたがって、出羽道を経て大関山(笹谷峠)を目指したが、十日の黄昏時には芝(柴)田郡大高宮付近で、鎌倉方の先陣を切った和田義盛に追いつかれることとなってしまった。義盛は見事に国衡を射抜き、傷ついた国衡が馬に鞭を当て逃げようとしたところ、深田にはまって身動きがとれなくなる。奥州一の名馬といえども、「大肥満」といわれたかの巨漢の国衡を乗せてはいかんともしがたく、ついに畠山重忠の門客(もんかく)大串次郎に討ち取られてしまった(史料五三二)。その首は重忠によって翌十一日に頼朝に献上されている。