こうした境界地域は、古代以来、流刑地として位置づけられることが多かった。先に挙げた史料⑤の入来院文書にそのことがはっきりと書かれている。境界は鬼の住む恐ろしい地域であり、二度と帰ってこられないように、そこへ国家や社会に悪をなすものを島流しすることが、都人にとって一番安心なことであったのである。同様に、北限の佐渡、南限の土佐も、古代以来の著名な流刑地であった。
そもそも日本における流刑は、モデルとした中国のそれとは異なって、神怒に触れたものを共同体外に追放するという原始刑法(祓(はらえ))に由来するもので、囚人を島に捨て殺しにするという準生命刑というべきものであったとされる。実際、古代以来流刑にされた実例を調べてみると、その配所としてはほとんどが島であった。また中世になって新たに登場する流刑地も、夷島・鬼界島といった島である。これは日本国家の領域の拡大、辺境の東西への伸展の結果であった。