このように、安藤氏の系図相互にさまざまな混乱やずれが生じたのは、上国と下国、のちには湊と檜山といったふうに一族支族が数多く分かれ、嫡庶の争いもあって、相互に自家の正統性を主張しようとしたことが原因であるといわれているが、それにもまして、変転の内に基本史料の多くを失ってしまったことが最大の原因であろう。
これら四つの系図のなかではもっとも頻繁に使用される『秋田家系図』についてみると、藩祖秋田俊季の時期にも未だ記載が確定していない代物(しろもの)であるばかりか、現存文書から再検討してみてもかなりの事実誤認を含むものであるし、秋田実季が自分の祖父・曽祖父についてすら誤解していたという驚くべき事実(実季自身、曽祖父や叔父たちのことでさえ不明であるといっている。史料一一五八~一一六六)があるのである。