夷千島王の朝鮮遣使

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文明十四年(一四八二)四月、足利義政の使者栄弘(えいこう)と夷千島王(えぞがちしまのおう)の使者宮内卿が、朝鮮国王に対して大蔵経の賜与を求めている(史料八五二・写真161)。

写真161 『朝鮮王朝実録』

 義政の使者栄弘は、大和東北山中の土豪狭川(さがわ)氏に出自が求められる人物で、大和円成寺(おんじょうじ)再興に伴って大蔵経を求めたものであるという。また、このときの目的は、単に大蔵経の請求だけでなく、義政が求める品物をも輸入することにあり、すでに文明十三年五月にはその準備が進められていたという。
 さて、夷千島王の使者については、朝鮮側はこの国の存在を知らない上に、宮内卿が朝鮮側からの質問に適切に答えられなかったことなどから疑われ、結局は大蔵経を手にすることができなかった。この夷千島王を名乗る人物については、日本と対等の国として発言していること、朝鮮北部国境地方のようすを知っていることなどから、日の本将軍としてある程度の独立した勢力を持ち、日本海交易と密接にかかわる安藤氏ではないかといわれる。日の本将軍の呼称と同じように、この夷千島王についても、地域の自立性が指摘されるのである。
 しかしながら、たとえば、「野老浦」はオランカイを示そうとしたものであり、その表記は朝鮮での女真人(じょしんじん)の俗称である「野人」や朝鮮語の音や訓を用いたものであり、夷千島王なる人物は日本列島北部の者ではありえず、対馬島民であり対馬島主宗貞国が支援していた可能性が高いという指摘もなされるようになった。また史料により、その王名についても「遐叉」「遐义」であったり、夷千島「王」であったり「主」であったりするものがあるということも指摘されている。