「人寄せ」と人口流出の禁制

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廃田を復興し、荒廃した農村を復興させるには、飢饉のため人口が減少した農村に労働力として人を呼び寄せることが不可欠である。天飢饉は餓死・病死による減少以外に、他領への逃散(ちょうさん)という形で多くの人口流出を招いた。寛政二年(一七九〇)三月二十五日に三奉行(町・郡・勘定)は帰国人に相応の手当や食料を支給することを提案し、また六月には、他領からの移住者にも同様の取り扱いをする事を認めている(「国日記」)。これら帰国人や他領からの移住者勧誘に当たったのが「人寄役(ひとよせやく)」で、代表的な人物として五所川原村郷士(ごうし)飛鳥五郎兵衛などが挙げられる。飛鳥は同年の帰国人・移住者の措置について藩に上申、呼寄役に任命された。
 さらに享和元年(一八〇一)藩は荒地開発につき、出人夫・帰国人等の扱いに関する指示を出した(資料近世2No.八七)。そこでは、帰国人には移住に関する手当を給付し、住居・屋敷は望みのままに与えること、建築に関する費用は村の負担とすること、用水堰・水門の使用にかかわる負担は一年に限り藩が負担すること、三年間の郷役(ごうやく)免除などの特権が付与された。移住に当たっては城下へ帰った在宅武士の屋敷跡の利用も認められている(同前No.八八)。また、開発にかかわる出人夫の規定も定められたが、人夫の賃金は村々が負担することとされた。このような措置により、たとえば享和二年九月の「国日記」の記事のように、盛岡領野辺地から一家六名が飯詰・俵元両組村々内へ移住を認められるなど、他領からの移住者もみられるようになる。
 しかし、農村が復興する十九世紀前半は、一方で蝦夷地警備による人夫としての農民の徴発、松前稼ぎの進展による人口流出もみられる時期でもあった。文化二年(一八〇五)幕領化した箱館周辺の田畑開発を進めるため、幕府の役人が津軽秋田・南部の各領を廻って人夫募集をしたことがあった(同前No.八九)。これに対応し、津軽領からも浦町村三郎次のように、積極的に箱館への移住を仲介する者も現れた。このような事態に対し、藩は先年の凶作のあと今に至るまで領内は人手不足で、特に廃田開発で他領からも人を呼び寄せている状態であり、他領に人が出ていくことは農事の妨げになるとして、在方の者の箱館移住を厳しく規制した。
 特に天保の飢饉後は廃田復興よりも、手軽に現金収入の道が得られる他領稼ぎのほうが指向され、藩では労働力の流出に悩まされることになった。天保十三年(一八四二)には希望者にはその村・組以外の者にも自由に廃田開発をさせ、その土地は「永久持地」にさせるという方針が打ち出されている(「国日記」天保十三年六月十九日条)。当時、既に弘前九浦では不在地主が発生しており、彼らの資金力も当てにされたのである。さらに都市住民の中でも仕事に就いていない者、農業を志す者はそれぞれ支配頭に申し出て、勝手次第に耕作してもわないと、指示している。人寄せの必要は飢饉の被害を受けた他領でも同様であり、さらに幕府の蝦夷地開発政策もあいまって、労働力の確保は競争といえる状況であった。