天保四年における藩の対応

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天保四年の凶作では、天飢饉の教訓から藩の対応は比較的素早く、被害を最小限に食い止めた感がある。凶作の予兆が現れた七月八日には、藩はいち早く廻米を停止し津留(つどめ)の処置を講じている。これは前月二十八日に、青森町年寄町名主により御蔵米(おくらまい)一〇〇〇俵払い下げの請願があったのを受けたもので、同日に御蔵米の放出も決定している(「秘苑」)。同じく青森町人の請願にもかかわらず、廻米を強行して飢饉の被害を広げた天飢饉とは対照的な対応であった。
 他領からの米の購入(「買越米(かいこしまい)」)も進んだ。藩は領内の分限者(ぶげんしゃ)五〇人に御用金の調達を命じ、これを資金に上方から三万一八五一俵を買い付けた。厳寒期に入る前の十月十七日に鰺ヶ沢に到着し、領内各地に支給されている。これにより米の相場も下がり、十二月には一俵当たり古米八〇匁・新米五〇匁に下落した(『永宝日記』)。翌五年には加賀から米一万五〇〇〇石の購入を行い、春二月に到着している。
 また、天保四年には、天飢饉以来強化された貯米制度が功を奏した。天期にも、在方への貯米は命じられていたが、実際は藩の廻米や借財返済に充当されたりして、有名無実となっていた。藩はその反省に立って、寛政元年(一七八九)から一〇石に対して籾五斗を貯えさせ、組ごとの郷蔵設置を徹底させた。天保期に入っても、天保三年が不作だったため、藩は一人一升あるいは一軒に付き二升の米の徴収を命じ、分限によってはそれ以上を差し出せた。そのため天保四年の段階で、藩全体の貯穀は四〇万俵に達していたという。この他に各村独自の判断による貯米や、豪農の提供による貯米の存在もあった。このような貯米が秋口から放出されていった。
 さらに、天飢饉の措置に倣って、八月二十日から藩士の給与は、石高にかかわらず一律に一人一日四合になる「面扶持(めんぶち)」の制度が採られた。九月二日には藩庁から米銭貸借を一切免除する布達が出され、質返しも命じられた。また救山(すくいやま)の設定、酒造の禁止などの処置も講じている。
 なお買越米の購入に要した費用は一万五〇〇〇両に及び、もっぱら豪農・豪商層の御用金で賄われた。米一俵一両の計算で、在方は一万両、弘前は三〇〇〇両、九浦黒石はそれぞれ一〇〇〇両と負担額が決められた(『記類』下)。藩の姿勢は在方の窮状は察しつつも、可能な限り取り立てようとする意向であり、領内各組ごとに御用金の割り付けが行われた(「国日記」天保五年正月二十二日条)。
 この御用金は一部の豪農のみならず、本百姓(ほんびゃくしょう)層にまで広くわたっている。五所川原市の藤田家文書(『五所川原市史』史料編2下巻)によれば、飯詰組・俵元新田組計一八ヵ村から藩に御用金を提出した農民は三二八人にも及び、最低金額は一朱(一両の一六分の一)、二朱といった金額である。豪農層にとっても自身の経営が無傷でない以上、藩からの要求はかなりの負担で、五所川原の平山家をはじめ、多くの豪農たちから何度も上納延期の嘆願が出されている。また、藩士面扶持の手当である「菜銭(さいせん)」も豪商農の御用金によって賄われた。このように、藩の救済策も実際は同じ百姓に負担を転嫁したものであった。
 天保四年については、津軽弘前藩より秋田藩のほうが飢饉の被害が深刻であった。秋田領では天保四年の飢饉による死者は史料によって違いはあるが、三万人から五万人という。「秘苑」ではそれを裏付けるように、大館では一ヵ月に二〇〇人の死者があり、川原に大穴を掘って埋めているとか、久保田城下では救小屋に二〇〇〇人以上が収容され、多くがそのまま死んでいる状況など、惨状を伝えている。その一方で、津軽領では餓死者は一人もなく、「近国にはない仁政」とまでいわれ、津軽に戻ってきたら平穏で安眠できたと述べている。よって、天飢饉にみられなかった秋田領から津軽領へ逃散する飢民の流れがみられる。『天保凶耕雑報』によれば、秋田領の飢民のため、藩は新寺町白道院(びゃくどういん)と和徳町郷蔵脇に小屋を造って収容し、約一七〇人に施粥を行っている。その後も飢民は増加したので、楮町(こうじまち)にも小屋を造り、他国人を収容した。秋田藩の役人が引き取りに来たが、大半は再び津軽に逃げ帰ったという。「年中日記」(豊島勝蔵編『津軽新田記録』三 私家版 一九八七年)にも同様に、弘前秋田領出身の袖乞(そでごい)の者二〇〇人に一日一人二合の手当を与えた記事がみえる。