たとえば、寛文四年(一六六四)十一月六日付けで酒麹(こうじ)御役米蔵奉行に出された「定」(『津軽家御定書』一九八一年 東京大学出版会刊)は、城下のみならず領内の酒造と麹造に対して賦課した役銀と役米徴収に関する規定であるが、これによれば酒造の役米は京升一〇石につき次銀(なみぎん)一六匁、麹役は古室(むろ)の場合は米四斗入りが二俵、新室の場合米四斗入りが一俵と定められていた。次銀は、慶長銀に比べて銀の品位の劣る領国貨幣である。また、酒造に使用する米の量については、城下では町ごとにそれぞれ調べて帳付けをし、一人ずつ判をとるようにという指示も出されている。同年十二月十六日付けで居鯖御役銀御催促奉行に出された「定」(前掲『津軽家御定書』)も、同じく城下のみならず領内の居鯖への役銀の規定であり、一人につき本役は次銀一枚、半分を負担する半役は二三匁と定められていた。その納入については、本役の者は七月と十二月に半分ずつ納めることになっており、半役の者もそれに準じて納めることになっていた。弘前城下には居鯖横目(魚屋の商売を監視する役)が四人、両浜(青森と鰺ヶ沢)に四人、十三(現北津軽郡市浦村)に一人、そのほか(場所不明)に四人の計一三人置かれていた。
ところが、寛文五年(一六六五)十月六日付けで町奉行福士甚左衛門宛てに出された「覚」(前掲『津軽家御定書』)には、町奉行の町方に関する職務が規定されており、その中には粒油・水油の支配の事、職人支配の事、酒・麹役支配の事、居鯖支配の事、紺屋役布吟味の事といった内容があり、翌六年四月十日付けで同じく福士に宛てて出された「自然肴物出候節御役銀之覚」(前掲『津軽家御定書』)には、「生鰰(なまはたはた)」をはじめとし「黒のり」まで一九種類の役銀の規定が記載されている。これらのことから、従来は役銭をそれぞれの管轄する奉行に納めていたものが、町奉行へ納入するように代わったものといえよう。
正徳期(一七一一~一五)の「町方屋敷割裏書記録」(前掲『弘前城下史料』上)に載っている「諸役銀之覚」によれば、城下の酒屋は一一〇軒あり、役銀は一軒につき三両三〇匁、質座は二二軒で役銀は八六匁、室屋は三一軒で役銀は本役は三〇匁、新室は一五匁、豆腐屋は四〇軒で一五匁、魚売は本役が三〇匁、半役は一五匁、大工・木挽は上々が八匁、上が七匁五分、中が六匁五分、下が五匁、下々が四匁、檜物屋は一軒四匁、染屋は四四軒で一軒五匁であった。このほか、払京升(ます)は一つにつき二匁八分、大秤(はかり)は一つにつき七匁七分で、質屋の利息は宝永四年(一七〇四)から二歩半(二五パーセント)となっていた。
図2.弘前寶字銀
時代が下がると、宝暦年中(一七五一~六三)から御印方によって書かれた「家業役銀帳」(資料近世1No.一一五五)がある。これには、多くの家業の役銀が記載されており、まとめると表3のようになる。なかには明和二年(一七六五)から文政十三年(一八三〇)五月までの書き込みがあり、この間、役銀に変化があったものもあるが、大半は変化がない状態であった。弘前城下以外に、両浜の青森・鰺ヶ沢の役銀や在浦(両浜以外の九浦)の役銀についても記載があり、貴重な情報を提供してくれる。それによれば、青森・鰺ヶ沢の役銀は弘前城下の半分が原則であったようで、豆腐・質座・蕎麦切・魚売の役銀がそのようになっている。
表3.役銀一覧(宝暦年中よりの「家業役銀帳」による) |
家 業 | 役 銀 | 備 考 |
造酒御役 | 7両2歩 | 天明6年11月から100石につき1貫500目 |
室 | 30目 | |
桶 屋 | 5文目 | |
染 屋 | 5文目 | |
小売酒 | 15文目 | |
中濁酒 | 150目 | 高30石まで,文政12年7月・13年5月仰せ付け |
豆 腐 | 15匁(両浜7匁5分,在浦4匁) | |
質 座 | 85匁(青森42匁5分,在浦30匁) | 寛政4年より鰺ヶ沢も青森同様 |
醤 油 | 25文目 | |
酢 | 25文目 | |
菓子屋 | 10文目 | |
蕎麦切 | 5文目(両浜・在浦2文目5分) | |
素 麺 | 10文目 | |
絞 油 | 15文目 | |
研 屋 | 1匁5分 | |
鞘 師 | 1匁5分 | |
附木屋 | 5文目 | |
金具屋 | 3文目 | |
鋳物師 | 7文目 | |
鍋 屋 | 7文目 | |
升 屋 | 25匁 | |
仕裁屋 | 7文目 | |
合羽屋 | 2文目 | |
唐笠屋 | 1文目 | |
提灯屋 | 2文目 | |
檜物師 | 4文目 | |
足袋屋 | 3文目5分 | |
塩触売 | 5文目 | |
魚 売 | 30文目 | 両浜魚売小頭は15文目 |
塩肴・干肴 | 30文目 | |
魚触売 | 10文目 | |
干 肴 | 15文目 | ただし両浜・油川ばかり |
蝋 燭 | 5文目 | |
鳥 取 | 5文目 | |
鳥 屋 | 5文目 | |
山漆実買請 | 40文目 | |
塩釜壱枚 | 35文目(外浜通) | 西浜通は25文目 |
炭竃 | 大釜1枚に付き(不明)・小釜2朱 | 小泊壱所に付き2斗5升入10俵宛金1歩 |
注) | ただし,「鯵立待」以下の漁業関係役銀は省略した。 |
幕末期の慶応三年(一八六七)六月の「土手町支配家業帳」(前掲『弘前城下史料』上)は、上・中・下土手町と松森町の諸職と諸家業を書き上げたものであるが、「御役諸工」として指物師(さしものし)の役銭五匁、上木挽の役銭七匁五分、中木挽の役銭六匁五分、研師(とぎし)の役銭三文目、鍛冶の役銭五文目、𨫤張(きせるはり)の役銭三匁、上大工の役銭七匁五分、中大工の役銭六匁五分、金具師の役銭三匁、上石切(いしきり)の役銭三匁、中石切の役銭二匁六分、傘張の役銭一匁、桶屋の役銭五文目、檜物師の役銭四文目、経師の役銭三文目、附木突の役銭五文目、挑灯張(ちょうちんはり)の役銭二文目、中畳刺の役銭二匁六分を挙げることができる。「御役家業」としては造酒高一〇〇石につき役銭一貫五〇〇目、質座の役銭八五匁、魚売の役銭三〇匁、菓子の役銭一〇匁、線香の役銭一五匁、染屋の役銭五文目、豆腐の役銭一五匁、引酒小売の役銭一五匁、絞油の役銭一五匁、魚触売の役銭一〇匁、蝋燭(ろうそく)の役銭五文目、造醤油の役銭八五匁、造酢の役銭二五匁、饂飩(うどん)の役銭一〇匁、塩触売の役銭五匁、蕎麦切の役銭五文目、室屋の役銭三〇匁、塩味触売の役銭五文目、塩店売の役銭五匁が挙げられる。「御役諸工」と「御役家業」とに分類されたのがいつなのか不明であるが、前掲表3から判断すると、寛政年間(一七八九~一八〇〇)ではないであろうか。役銭を納めない場合は「無役家業」とされており、城下全体の役銭を書き上げたものではないが、おおよその傾向は判明する。前述の「家業役銀帳」にみえる家業の役銭と同じであり、城下の役銭は宝暦期以降は幕末までほとんど変化がなかったといえる。
さて、城下には前述のように各種の家業があったが、同業組合ともいうべき仲間組織もあったことが「国日記」の記述から判明する。「国日記」享保二年(一七一七)十二月七日条には、米屋仲間が弘前御蔵米を買いたいとの請願を行っており、米屋仲間の存在が知られる。「国日記」宝暦十一年(一七六一)八月二十日条では、金融業と思われる金売りの小石久六が逐電をしたため、久六が扱った今泉伝兵衛への未払いの金高を金売仲間で償還するようにという藩からの下命が出ている。金売仲間では不景気でそれに十分対応出来ないという請願をし、結局久六の一族と思われる小石宇三郎と医師井上玄良の屋敷を交換し、この新しい井上玄良の屋敷を今泉伝兵衛へ下げ渡すということで、決着をみている。その際の記述から、弘前商人仲間という組織もあったことがわかる。
居鯖仲間については二ヵ所記述がみられる。「国日記」寛政五年(一七九三)六月二十六日条に、不実で不人情で、かつ日市居鯖仲間に対して筋違いのことがあったとして、土手町木屋長四郎の孫吉兵衛が弘前から三里四方追放となっている。「国日記」天保六年(一八三五)十一月十七日条には、日市御用肴屋の小山長八が、わがままで言い過ぎのことがあり、居鯖触売仲間ともめ事が絶えないので、御用肴屋と居鯖家業を辞めさせ、倅岩五郎に御用肴屋を継がせたいという町年寄の申し出がみえる。日市居鯖仲間と居鯖触売仲間が同一組織であるのかどうかは不明であるが、居鯖仲間という組織が存在したことは確実といえる。
前述した商人仲間については、「国日記」文化二年(一八〇五)十月十八日条には、弘前商人仲間へ対し、津軽郡内での商家の米・金銭貸借について、その取引定を商人仲間より詳しく申し出るようにとの藩からの下命がみえる。同じく「国日記」文久二年(一八六二)十一月十一日条では、商人仲間が町定飛脚用に、従来は六匹だったが一〇匹の馬の先触れを出してもらいたいので、京都表へ連絡をとってほしいという申請を藩へ出している。商人仲間の実態は不明であるが、金融や運輸関係の業務を行っていた組織であった可能性が高い。
また、幕府の行った「天保の改革」(一八四一~四三)の主要政策の一つに、株仲間の解散があるが、「国日記」天保十三年(一八四二)五月五日条には、江戸から来た株仲間解散の通達が載っており、領内にくまなく通知されている。ただ残念ながら、これらの仲間組織の活動を規定する議定書といったものは今のところ知られていない。
仲間という名称は名のっていなくても同業組合組織が存在した可能性が高い家業もある。質屋については利息の統一などの必要性があり、また役銭の書き上げが「質座」となっていることからみて、同業組合は存在した可能性が高いといえる。元禄八年(一六九五)六月九日の「質座作法御定」(前掲『弘前城下史料』上)には、刀・脇差・諸道具・諸品等は一二ヵ月で、衣類等は八ヵ月で質流れになる定めとなっており、銭質は一〇〇文につき四文、金二両以下は一月一歩につき四分(四〇パーセント)、金一〇両以下は一月一歩につき三分(三〇パーセント)、金一〇〇両以下も同じく三分(三〇パーセント)の利息というように定められていた。前述したように、正徳期の「諸役銀之覚」(同前)によれば、質屋の利息は宝永四年(一七〇四)から二歩半(二五パーセント)に変更されている。これらはいずれも、藩の強い指示ではあるが、指示を受ける受皿として質座が存在していた。
一方、酒造業(酒屋)の場合であるが、寛延四年(一七五一)三月八日の酒屋役の記事(同前)では、それまでの酒役二五〇匁と室役三〇匁の計二八〇匁の上納が、酒造高一石につき一〇匁に改定されているほか、酒の販売値段も一升九分が一升一匁に改定されているものの、米相場によって値段を高下できるようにと藩から指示が出されており、藩の強い統制下にあったようである。ところが、幕末期にあたる嘉永六年(一八五三)の「金木屋日記」(資料近世2No.一九四)正月六日の記事には、弘前の酒屋が会議を持ち、酒一升の値段を二匁二分で売るように藩から指示されたが、売場では一升は二匁五厘、一合は二分一文、五勺は七文に、売子は一匁七分五厘で売るように相談をしたということが情報としてもたらされたことを記しており、弘前城下に酒屋の同業組合が存在していた可能性を示唆している。
また、「金木屋日記」同年三月十五日の記事には、弘前本町の木綿屋たちが正札商売を藩から強いられ商売が不振になったため、藩への商売上の願事もあり寄合を持ったということがみえており、この寄合は一昨年から昨年まではたびたび持たれていたようである。木綿屋の同業組合のようなものが存在したことをうかがわせる。
なお、この日記の記録者は武田又三郎敬之で、山一金木屋の屋号を持ち、弘前城下本町で質屋・酒屋を経営した、城下のみならず領内でも有数の有力商人である。日記を記録し始めたのは、家業の不振から現中津軽郡岩木町賀田(よした)へ転居した後のようであるが、藩の重臣大道寺氏とはかなり親密な付き合いをしていることがわかり、政治・経済・その他の情報を入手して記録しており、貴重な史料である。