火災の合図は、宝永五年(一七〇八)の「弘前火事の節合図の定」によれば、「鐘撞堂(かねつきどう)」(現市内森町)では火の見の足軽が早鐘をついた。その鐘によって、二の丸の時太鼓櫓の者が、城郭内の火災の場合は早太鼓を打ち、周辺の寺町(てらまち)・蔵主町(くらぬしちょう)・亀甲町(かめのこまち)・紺屋町(こんやまち)・馬屋町(まやちょう)・茂森町(しげもりまち)・本町(ほんちょう)の場合は早めに五つずつ切って打ち、その他の地域での火災には打たないことになっていた。鎮火の合図は太鼓櫓で銅鑼(どら)を静かに一五打ったのである(前掲『御用格』第二三)。
文政四年(一八二一)には、城下の火災発生から鎮火まで、太鼓と半鐘を一つずつ交互に打つように変わったが、これではあまり騒々しいので、翌五年になり、火災が下火になった時には打ち方は同じであるが、間を長くとって打つよう変更されている(『御用格』第一次追録本 下巻)。このように、時代によって火災の際の合図に多少の違いがあった。
町火消(町方に設けられた消防組織)の起源は寛政七年(一七九五)ころとされている。それ以前には町単位で消火に当たっていた。正徳期(一七一一~一六)の「正徳期町方屋敷割裏書記録」(長谷川成一編『弘前城下史料』上 一九八六年 北方新社刊)にみえる「町々出火之節町印之覚」によれば、町印のついた旗が一三描かれており、松井四郎兵衛・松山善次の標識もみえているので、出火の際には両町年寄の指揮のもとに町単位で消火に当たったことが知られる。
図6.町々出火之節町印之覚
文化期(一八〇四~一八)には、名主(なぬし)の数だけの消防組一二組が組織されていた。一組は二町~六町の連合からなり、その編成は次のようになっている。本町(本町・新寺町(しんてらまち))、鍛冶町(かじまち)(鍛冶町・桶屋町(おけやまち)・銅屋町(どうやまち)・建詰町(けんづめちょう)・土場町(どばまち))、親方町(親方町・大工町・長町(ながまち))、土手町(土手町・松森町(まつもりまち))、富田町(とみたまち)(富田町・品川町(しながわまち))、楮町(こうじまち)(楮町・紙漉町(かみすきまち))、和徳町(わとくまち)(和徳町・萱町(かやちょう)・北横町(きたよこちょう)・南横町(みなみよこちょう)・田町(たまち))、東長町(ひがしながまち)(東長町・元寺町・寺小路(てらこうじ)・鞘師町(さやしまち)・鉄砲町(てっぽうまち)・一番町(いちばんちょう))、亀甲町(亀甲町・禰宜町(ねぎまち)・馬喰町(ばくろうちょう))、紺屋町(紺屋町・御蔵町(おくらちょう))、新町(あらまち)(新町・駒越町(こまごしまち)・平岡町(ひらおかまち))、茂森町(覚仙町・茂森新町(しげもりしんちょう))。
また藩庁では各組の人員を少ないものは一〇人から、多いもので五〇人を越えないよう定めた。これらの消防組は、町茂合銭(まちもやいせん)(その町に住む人々が醵出(きょしゅつ)して町の運営に使用した金銭)で維持されたようで、寛政十一年(一七九九)六月に半鐘を町々に設備することとともに許可になっている。