当時の様子について、青森商人滝屋善五郎は二月四日の日記に、大坂で徳川慶喜が朝敵になり、蒸気船で江戸へ逃げ去った、譜代大名は残らず朝廷方につき、幕府征討に向かっており、幕府の味方は、会津、桑名、庄内、伊予松山藩ばかりとなっているという情報を得たこと、また、蝦夷地詰めの庄内藩士には帰藩命令が出され、松前藩や弘前藩の様子も慌ただしく、今後どうなるのかわからないということを記し、最後に「恐怖ノ時勢」になったと締めくくった(「家内年表」明治元年二月四日条 青森県立図書館蔵)。
ここにみえるように、北の玄関口である青森においても戦争の余波がしだいに濃くなりつつあった。蝦夷地(えぞち)詰めの庄内兵が引き揚げ、頻繁に各藩の早馬が往復する様子は、庶民にも不安を抱かせる。先の不透明さを善五郎は「恐怖ノ時勢ニ相成候」と表したのである。
こうして、戊辰戦争が始まり、旧幕府側と新政府側という二極対立の構図が誰の目にも明らかになったが、結局、藩はこの時点では、北辺の守りを建て前に、日和見的な立場のまま自藩の方向性に決定的な判断を下すことができずにいた。そして、時局への対処としては、中央からの報を家中に広く公表し、軍制改革をすすめるなど、藩を挙げての体制強化に取り組む方法を取ったのであった。すなわち三月、津軽弘前藩は軍政局を新設し、近代的な軍政への改革に本格的に着手した。内戦の勃発がきっかけで、政局が不透明な中、自らの存在を守るための軍備拡張であった。