料理店

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明治三十三年の弘前の景況について、「この頃、町にふえたものは料理店の客、貸座敷の数…」と言われたように、同年八月の調べでは、料理店一四六、貸座敷数二二で、これに伴って芸妓は三九人、娼妓は一四二人であった。当時のこうした料亭花街のにぎわいも、軍隊設置の影響による市中活況の一面を物語るものということができよう。
 明治後期の市内一流料理店として知られたものは、本町の酔月楼・万葉亭・峰月館、親方町の長久楼・中村楼、東長町の延年閣、桶屋町の新若松、相良町の新し家、富田の住吉館などであった。中でも新若松楼は最も大きく、二〇〇人もの大宴会ができた。芸妓見番は三十年代に橡ノ木にあった。酔月楼・峰月館・中村楼のみは内芸者を置くことを認められていた。商家の旦那・成金の商人・田舎紳士・軍人などと浮名を流し、「嫖郎の懐中を悩ますもの、大小老幼合して三十九匹」(『弘前風俗画報』第二号)と言われた妓の中には、江戸くだりの者も数人あったと言われる。百数十軒と言われた当時の料理店の多くは、いわゆる小料理店で、土手町・松森町・品川町あたりには白首(しらくび)・後家(ごけ)などと言われた私娼を置く店もあった。