スケート大会行わる

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昭和五年(一九三〇)二月十一日、第一回弘前少年スケート大会が開催された。主催は弘前スケート協会で、会場は上土手町の次郎兵衛堤の協会専属リンクである。次郎兵衛堤は現弘前市立病院裏から上土手町裏に沿って、現大町まで続いた広大な溜池である。昭和三十年ごろから埋め立てられ、現在は大町三丁目に属し住宅街となっていて、昔の溜池の面影はない。しかし、昭和初年にはボートを浮かべ、夏は納涼大会、花火大会が開かれ、冬はスケート場として人々に親しまれた。
 第一回少年スケート大会は、十一日午後四時から開かれた。参加校は和徳、時敏、一大、二大の四校で、生徒の競技出場者は約一〇〇人に達し、接戦の結果、和徳校が優勝旗を獲得、そのほか協会員のスピードスケート、アイスホッケー紅白戦、フリースケーティングの妙技などが行われて二〇〇〇人の観客を熱狂させ、午後六時閉会した。出場選手は男子四年生以上。スピードスケートの二〇〇メートル、四〇〇メートル、六〇〇メートルを競った。当時のスケートは、ゴム長靴に革の締め具で縛りつけたもので、エッジなどのついた競技用のものでなかった。しかし、児童たちは、凍った雪の上を粗末なスケートで縦横に走り回ったものである。自然環境に恵まれたせいもあるだろうが、このころの児童のほうが現在より、日常生活でスポーツを楽しんだのではなかろうか。しかし、少年スケート大会は昭和七年の第三回まで開かれて中止された。暖気のため堤に氷が張らなくなり、リンクを造ることができなくなったからである。