旧石器時代はまた、地質学でいう第四紀更新世(旧名は洪積世)の時代であり、地球の北半球を氷河が広く覆っていた結果、別名「氷河時代」と呼ばれている。この氷河は少なくとも4回反復し、旧石器時代人はこのような自然の試練に耐え、知恵を絞って道具の改良に努め、現在の発達した文化の基礎を築いたのである。
氷河が拡大した時期(氷期)は海水面の低下を招き、旧石器時代人は津軽海峡を自由に往来することができた。逆に、氷期と氷期の間の間氷期には、海水面が上昇して海峡を越えることは困難になり、氷河時代の終わった後の完新世(旧名沖積世)に入ると、津軽海峡という自然の障害は動物等の世界にも彼我の相違をもたらし、ブラキストン線という境界をも設定させた。
太平洋戦争終結以前の学界では、日本列島に旧石器は存在しないという考えが常識であり、固定観念であったが、昭和24年(1949)夏、相澤忠洋(ただひろ)(1927~1989)により、群馬県桐生市郊外の新田郡笠懸(かさかけ)村(現笠懸町)岩宿にある小丘の赤土層(関東ローム層)中から、黒曜石製の槍先形石器が発見された。それを契機として、同年秋には明治大学による発掘が行われ、旧石器の存在が確認された(図1)*1。
図1 旧石器時代の石器
群馬県笠懸町岩宿遺跡の現状
石刃(ブレード)…
野辺地町・目ノ越遺跡
(野辺地町歴史民俗資料館蔵)
ナイフ形石器・スクレパー等各種石器…
東通村・物見台遺跡
(青森県立郷土館提供)
局部磨製石斧…蟹田町・大平山元Ⅰ遺跡
(青森県立郷土館提供)
石器出土状態…蟹田町・大平山元Ⅰ遺跡
(青森県立郷土館提供)
旧石器を包含していた関東ローム層は、火山の噴火によって積もった火山灰の堆積層であり、その火山灰が降り注いだ更新世の時代には、人の生息はとうてい不可能という観念に押さえられていた。したがって、相澤による同層中からの石器発見は、考古学界にセンセーションを巻き起こしたのである。現在は、考古学と地質学とがタイアップして、関東ローム層の詳細な分類と年代が示され、それを基本に全国各地でも同様な研究がなされている。
近年の調査研究によると、大きく新聞等に報道された宮城県栗原郡築館町の高森遺跡をはじめ*2、同県の北部を流れる江合川(えあいがわ)流域などには、約50万年前ないしはそれに近い前期旧石器時代の遺跡が続々と発見されている*3。現在では、全国で約4000を上回る遺跡が発見され調査も進められているが、それらの大半は後期旧石器時代に属するもので、前期旧石器時代の類は僅少である。
岩宿の調査以後進められた各地の調査を基に、加藤稔は石器文化談話会の人々とともに出土土層を対比検討し、東北地方の石器の変遷を次のように設定した*4。
前期旧石器時代 | 後期旧石器時代 | 中石器時代 |
礫器→スクレパー | →ナイフ形石器→彫刻刀形石器→(石刃技法)→尖頭器→細石刃→ | 片刃石斧→有舌尖頭器 |
また、芹澤長介は、各地で発掘された石器と出土した地層とを基準に、前期旧石器時代(チョパーと剥片尖頭器(はくへんせんとうき)の文化)→後期旧石器時代(ナイフ形石器文化→細石刃文化)→晩期旧石器時代(有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)文化)のような変遷が考えられるとした*5。
これらの石器は、石器の材質と製作上の技術的な作用等によって、地域的な差を生じているが、変遷の大要は共通している。