利器としての機能を持つ箆状石器は、別名石箆とも呼ばれ、その名は八幡一郎によって命名された。周縁は細かく打ち欠かれて刃部をなしている。Scratcher あるいは Scraper 的な機能を有する石器であるといわれる*67。同じく利器的な機能を持つ石器にトランシェ様石器がある。この石器は、北欧などにおいて、中石器時代に製作使用された Tranchet (扁平斧)に形状が類似することからその名が起こった。現在のところ、早期の白浜・小舟渡式土器期に出現し、早期後半のムシリⅠ式土器期まで使われた刃器らしい。
刃器ほど鋭利なものではないが、打製石斧(せきふ)または一辺を擦り石的に用いたとも考えられる石器に、半円状扁平打製石器がある。岩手県軽米高校の教師をしていた鈴木孝志によって命名されたが*68、機能・用途の実態はまだ把握されていない。前期の円筒下層a式土器期から、後期の十腰内Ⅱ群(式)土器期まで存続し、前期の円筒下層式土器期に多い遺物である。
石器及び石製品には以上のもののほかに、石鏃(せきぞく)・石槍・石匙(さじ)・打製石斧・磨製石斧・スクレパー・石錐・異形石器・不定形石器・剥片利用石器などの利器や刃器と、石棒・石剣・石刀のような石製品、並びに装身具である玦(けつ)状耳飾・硬玉製大珠・小玉類等もある。
石鏃ほど人々の目に触れ、しかも普遍的な石器は無いであろう。石鏃には、大きく無茎・有茎・柳葉形の3形態がある。無茎鏃は、蟹田町の大平山元Ⅰ遺跡から草創期の無文土器に伴って出土し*69、縄文時代の各時期を通じて増減の違いはあるが普遍的に出土している。これに対し有茎鏃は、物見台・千歳式土器期に出現し、時期が新しくなるにつれて増加するという現象が見られる。一方、柳葉鏃も出現は有茎鏃と同様であるが、コンスタントな出土は見られない。この石器も有茎鏃と同様に、縄文時代の後半期になって増加するが出土量はあまり多くない。これらの石鏃3形態は、弥生時代に入っても存続するが、無茎は前半に、有茎は後半、柳葉形は初期と中葉に見られる。なお、当該石器は、無茎が縄文時代でも古い形式の土器に、有茎と柳葉形は新しい形式の土器に多いというとらえ方が、一般論としてなされている。アメリカ・インディアンの使用した石鏃の形態に類似するため命名されたアメリカ型石鏃は*70、晩期初頭の大洞B式土器期に出現し、弥生時代の中期後半まで存続使用されていたらしい。
石槍は、後期旧石器時代に出現し、突く・刺すなどの機能を有し、ときには長い柄の先端に着装して投槍に使われた利器である。青森県では、大平山元Ⅰ遺跡で草創期の無文土器などに共伴している*71。縄文時代各期を通じて製作使用され、中期のころには大型のものが作られている。
石匙という石器の出現は、早期中葉の物見台・千歳式土器期ころに現れ、弥生時代に入って数は減少するが、縄文時代全体を通じて製作使用されていた利器である。形状から3分類され、縦形は古い形式の土器に伴って多く、横形も出現は縦形と同じ時期のようであるが、縄文時代の早~中期にかけては数量の面で縦形に圧倒されており、それが逆転するのは後期終末に近い十腰内Ⅳ群(式)土器期のようである。石匙の3形態は、時期による増減の相違はあるとしても、縦形の多い時期に横形も製作され、またその逆も見られるなど、それぞれの形態が有する機能上の利点が背後に存在していたのであろう。
打製石斧は、草創期の無文土器期に現れ、早期中葉から弥生時代前期にまで存在した利器であるが、青森県では東北地方南部や関東地方などに比較して数量的には少なく、特に津軽地方はその傾向が強い。
磨製石斧は、先端部を磨いて鋭利な刃部を作り上げたものである。大平山元Ⅰ遺跡の局部磨製石斧を加えると、当該石器の出現は草創期までさかのぼることになろう*72。早期の初頭ころから出現し、弥生時代へかけて製作使用された。石器の形態から名付けられた定角並びに乳棒(にゅうぼう)状石斧と、原石を扁平な磨石(砥石)で擦って作り上げた擦切(すりきり)石斧などがあり、弥生時代に入ると扁平片刃石斧が現れる。
石錐・異形石器・スクレパー・不定形石器・剥片利用石器などと呼ばれる石器は、大半が工具としての機能を持つものである。石錐は、骨角器や毛皮・木製品を製作する際の穴開け器具として、異形石器は、骨角器の製作器具、不定形並びに剥片利用等の石器は、石匙などを作る際に出た剥片を主に利用した刃物としての使用が考えられ、スクレパーは、掻器(そうき)ともいわれるように削り取る道具として用いられたものである。以上のように、利器としての機能を有するこれらの石器の原材は、石鏃・石槍・箆状石器・石匙・石錐・トランシェ様・異形・不定形・剥片利用等の石器では、珪質頁岩が圧倒的多数を占め、ほかに石鏃では珪質凝灰岩・頁(けつ)岩・玉髄・黒曜石・流紋岩が使われ、石槍では、珪質頁岩に加えて珪質凝灰岩や緑色凝灰岩なども利用されている。黒曜石は、北海道をはじめ東北地方南部以遠に多いが、県産のものは気泡が多く、石器の製作には不適であったと見えてほとんど利用されていない。津軽半島突端に近い三厩村中ノ平遺跡で出土した黒曜石製の石槍は北海道産であり、必要不可欠のものは他の地域から移入し使用したのであろう。
石器のみならず、津軽海峡を越えての交流は想像以上に頻繁で、早期後半からその証拠が認められる。下北郡東通村にある前坂下(13)遺跡では、北海道東部に広がっている東釧路Ⅲ式土器の仲間の中茶路(なかちゃろ)式土器をはじめ、東釧路Ⅲ式や春日町式などの土器が出土し73*、上北郡六ヶ所村の表館(1)遺跡では、中茶路式のほかに東釧路Ⅳ式土器が発見され*74、交流の存在が裏付けられている。