図22 稲作伝播のルート
朝鮮半島を経由した稲作は、やがて九州北部に伝来し、その栽培技術の難関を乗り越えて人々に受け入れられ、そして定着した。稲作については、昭和53年(1978)の福岡市板付遺跡における調査で、弥生初期の板付Ⅰ式土器が出土した土層のさらに下層から水田跡が発見され、しかもその水田跡は、縄文時代晩期終末の夜臼(ゆうす)式土器に属する事が明らかになった。このため稲作の開始期は、従来の弥生時代初期という概念を大きく変えなければならない状況となった*152。ところが、昭和55年(1980)から翌年にかけて調査の行われた佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡において、板付遺跡よりもさらに古い縄文時代晩期後半の山ノ寺式土器期に相当する土層で水田跡が発見され、稲作の開始期はなおさかのぼることになった*153。このように近年は、稲作開始期がしだいにさかのぼるような状況となり、これに対し佐原眞は弥生前期以前に弥生早期を設定し、北九州や近畿地方の縄文時代終末をさかのぼらせる考えを提起した。
縄文時代晩期後半期に北九州で開始された稲作農耕は、その後しだいに本州にも広まり、やがて東北地方北部にも、西日本における弥生時代前期の遠賀川(おんがかわ)系土器(畿内第Ⅰ様式の新式に相当、三戸郡南郷村松石橋遺跡出土の壺型土器にその事例がある)とともに稲作の技術が伝来し、特に弘前市三和の砂沢遺跡では、岩木山から流れ出た豊富な沢水を利用した水田経営がなされていた。