弘前市教育委員会による昭和59年(1984)からの継続調査によって、6枚の水田跡を発見したが、さらに調査範囲を拡大すれば発見枚数は増加したであろう。
砂沢遺跡の水田跡は、緩やかな傾斜面に客土して造成するというかなり高度な農地造成の技術を有しており、在地の人々による模倣の技術と考えるよりは、遠賀川系の土器を持った技術者の経営した水田と考える方が妥当のように思われる。
水田に給排水する用水路跡を覆う状態で砂沢式土器を包含した土層があり、その土層から遠賀川系土器も混じって発見され、砂沢式土器と西日本の土器との対比関係が明白となった。恐らく稲作農耕の技術は、我々の想像を超えたスピードで伝わり、従来考えられていた紀元後1世紀以降との説を大きくさかのぼって、紀元前2世紀ころには導入されていたことであろう*154。