4.垂柳遺跡

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 砂沢遺跡の水田跡発見をさかのぼる6年前の昭和56年(1981)に、国道102号のバイパス建設に伴う事前の試掘調査で、田舎館村垂柳地区から水田跡10枚が発見され、翌年から2か年にわたりバイパス予定地内の発掘が行われ、計656枚にのぼる水田跡を検出した*155。垂柳遺跡の水田跡は、砂沢遺跡のものに比較してはるかに小さく、しかも地形を巧みに利用して造成されているため、区割りされた各区の水田の形状と数は表12にあるように均一化していない。一方の砂沢遺跡の例は表13に示したが、この場合は完掘された水田跡が2号のみであり、3号の大型を除くと、ほぼ2号の大きさの前後の範囲に収まるのではないかと思われ、垂柳の例よりは均一化されているようである。ただし、水田跡の発見数に相当の開きがあり、両遺跡を比較するのは難しい。この両者の相違は、前述のように造成地の地形的要因もあろうし、弥生時代前期(砂沢遺跡)と中期後半(垂柳遺跡)という時代差も要因になっているのであろう。また砂沢の水田跡は、当時岩木山から流下した冷たい沢水を温めて給水する必要性のために、面積を広く取り、いわばミニ溜池的利用を行っていた可能性も考えられよう。
表12 垂柳遺跡発見 弥生時代水田跡一覧表
調査区検出枚数検出面積
m2
最大面積
m2
最小面積
m2
検出水田面積の平均m2
Ⅰ区15116.6919.222.447.8
Ⅱ区82656.2022.435.1811.05
Ⅲ区65394.5418.953.348.34
Ⅳ区2251,642.7321.662.989.58
Ⅴ区91508.2114.443.207.91
Ⅶ区1868.288.480.193.79
Ⅷ区160579.907.961.114.44
※備考 Ⅵ区は水路のみであり、水田跡は検出されていない。

表13 砂沢遺跡発見 弥生時代水田跡一覧表
水田跡大きさ m面積m2
(復元面積)
長軸方向傾斜方向水田面
レベル m
長辺の
最大
長辺の
最小
短辺の
最大
短辺の
最小
1号水田跡17.215.34.2
(6.0)
2.4
(6.2)
43.6
(104.0)
W-EW→E
S→N
10.119
2号水田跡15.415.16.25.281.3W-EW→E
S→N
9.924
3号水田跡22.6
(23.5)
22.210.88.7163.4
(205.0)
W-EW→E
S→N
9.779
4号水田跡11.310.96.6
(7.3)
6.670.5
(75.3)
W-EW→E9.723
5号水田跡4.8
(10.5)
6.524.2W-EW→E9.740
6号水田跡7.2
(8.5)
6.49.9W-EW→E9.669
※備考 ( )で示した数値は復元及び推定した値である。

 砂沢と垂柳の両遺跡では、稲作農耕に関する諸道具(例えば耕作具や石包丁など)は見られない。砂沢の場合は、土器以外の遺物の内容を考えると縄文的な色彩が濃厚であり、垂柳も同様な傾向が強く感じられる。したがって、当地方では稲作農耕を推進しつつあったにせよ、西日本に見られるような集落を単位とする組織的な集団安全保障体制までは到達せず、開墾と水利の管理を中心とした小規模な共同体が生じていた程度であったろう。唐津の菜畑遺跡の例を見ると、初期水田は水の得やすい沢の下流面に造成されたようであり、当地の砂沢もそれに類する面を持っているが、時代の経過とともに沖積地に進出し、大規模な開墾によって広い面積が農地化され、その農地(水田)と水の管理が極めて重要な要素になるとともに、それらを制御し支配する者が将来的には支配者として、あるいは豪族となって人々の尊敬と信頼を集め、一集落のみならず数集落を傘下に入れる権力者へと発展し、やがて大きな組織(村から国)に生まれ変わっていくのであろう。九州の佐賀県にある吉野ヶ里遺跡等も、いわばこのような組織の一部であり、特に西日本にはこのような組織が多数作られており*156、魏志倭人伝にある「旧百餘国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。」の記事は、このような組織の存在を表しているように思われる。

図23 弥生時代の遺跡・遺物(田舎館村・垂柳遺跡)
垂柳遺跡の航空写真


垂柳遺跡発見の水田跡


田舎館式土器


田舎館式土器


田舎館式土器

(左上下2点及び土器3点は県埋蔵文化財調査センター提供)

クマの頭を表わした柄杓の柄…
(田舎館村歴史民俗資料館蔵)


火鑚臼…
(田舎館村歴史民俗資料館蔵)