東北地方北部の弥生文化も、中期後半の田舎館式期を境にして衰退したのであろうか、後期の念仏間式期に入ると遺跡は急激に減少してくる。さらにその後の天王山式(鳥海山式)期に入ると、北海道を中心とする続縄文式土器を出土する遺跡が目立って多くなり、その分布は下北半島から八戸市へかけての海岸線と、津軽平野東南の大釈迦丘陵末端に存在する*157。これらの続縄文式土器(後北式土器=江別式土器ともいう)は、本県を越えてさらに南下し、太平洋側における南限は、江合川流域の宮城県玉造郡岩出山町であり、日本海岸は最上川中流域の山形県寒河江市と、さらに日本海沿いに南下して、新潟県の柏崎市に近い刈羽(かりわ)郡西山町に達しているといわれる*158。ただし、分布に濃淡が見られ、特に日本海側では秋田県の米代川流域の密度が高い。
このような弥生時代後期の遺跡減少は、いわば人口減少の結果であり、東北地方北部には一種の過疎化現象が起こったのであろう。そのような状況のなかで起こった北海道の後北式土器の到来について、中村五郎は「東北地方の過疎化-集落の激減-は道南の漁民のになう交易を著しく困難にした。かつて渡島半島沿岸の漁民が、せいぜい青森県沿岸の集落で入手し得た物資が、集落の激減により、かなり南下した地域の集落を訪ねて、そこで入手するほかなく」と述べている*159。また佐藤信行は、「当時の東北北部の土着文化の零落が大きな一因であったと考えられ、(中略)人口激減化の現象が東北北部の弥生末期~古墳時代前半期にあったのではないかとも考えられる」*160と弥生時代後期に起こった現象について指摘している。
この特殊な現象が招来した原因について、吉崎昌一は「北半球の気候が一時寒冷化したことが原因の一つであろう」とした*161。また、石附喜三男は樺太の土器文化について「(鈴谷式土器)を伴なう文化の流れ-そこには当然のことながらそうした文化を担う人々の移動が伴なったはずである-が、北海道において江別式土器を製作使用する人々-江別文化人-の間に何らかの刺激、影響もしくは恐慌を惹起し、南千島あるいは本州へと江別文化人の移動を顕著ならしめる要因となったのではあるまいか」*162と、気候の寒冷化説に対し、樺太の土器文化の北海道への進出を原因に挙げた。いずれにしても、東北地方の北部を中心に、後北式土器の担い手たちが来着し、本拠地(北海道)と同様な生業を営んでいたのであろう。恐らく彼らが稲作農耕を営むのは技術的に無理であり、かつての弥生時代前・中期に行われていた稲作は、後の平安時代に入り開拓が大規模に行われるまで、中止または縮小せざるを得なかったものと思われる。