早期の住居跡は、次の白浜式土器期になると急激に増加し、集落を形成するようになる。上北郡下田町の中野平遺跡において12軒発見され、それらの平面形(プラン)は長方形・隅丸長方形・不整円形・長楕円形などであり、大きさは最小が5.08m2、最大は48.09m2を計測したが、特に105号竪穴住居跡は、長軸13.50m、短軸4.50mを計る大型の住居跡であった。いずれも柱穴は、壁際と床面に配列されていたが、炉跡は検出されていない*166。この白浜式土器期の住居跡は、上記のほかに長七谷地8号遺跡(八戸市市川町=円形)*167・根井沼(1)遺跡(三沢市三沢=不整楕円)*168・上尾駮(2)遺跡(上北郡六ヶ所村尾駮=楕円)*169・表館(1)遺跡(同郡同村鷹架=楕円と隅丸長方形)*170で発掘されている。
白浜式に続いて発見されているのは、早期中葉の物見台式土器期のものであり、先の表館(1)の例を見ると、平面形は楕円と長方形を呈し、この時期から炉(地床炉)が出現するようである*171。
早期後半期に入ると、吹切沢式土器期のものが下田代納屋B遺跡(下北郡東通村小田野沢)*172・新納屋(2)遺跡(上北郡六ヶ所村鷹架)*173などで発見され、平面形は隅丸方形と長方形である。この時期の炉跡は、床面を若干掘り込んだ掘込炉とでもいうべき形状であった。この時期に続いて、ムシリⅠ式土器期のものが、前述した表館(1)遺跡と売場遺跡(八戸市河原木)*174・発茶沢遺跡(六ヶ所村鷹架)*175で発掘され、平面形は表館が楕円形と隅丸方形、売場は円形と楕円形、発茶沢では円形と楕円形であり、炉は地床炉である。赤御堂式土器期の住居跡は、赤御堂遺跡(八戸市十日市)*176・表館(Ⅰ)遺跡(上北郡六ヶ所村鷹架)*177・売場遺跡などで発見され、平面形は隅丸方形・円形・楕円形で地床炉を伴っている。この時期の住居跡は、昭和31年(1956)の夏、江坂輝彌と音喜多富寿が中心となって発掘し、2.30mの円形プランを持つ竪穴住居跡を発掘したが、当該住居跡が本県の縄文時代早期に関する最初の発見である*178。
早期の住居跡の最後として現在判明しているのは、早稲田5類土器期のものである。この時期からは住居跡の発見数が急激に増加し、長七谷地貝塚6軒*179、和野前山遺跡(八戸市市川町)5軒*180・長七谷地8号遺跡7軒*181・新納屋(2)遺跡1軒*182・表館(1)遺跡6軒*183・売場遺跡2軒*184となっている。平面形は、円形・楕円形(長楕円形を含む)・隅丸長方形などであり、炉跡は地床炉であるがその数は極めて少ない。
縄文時代早期の住居跡は上記のようであり、まとめるとすべて竪穴住居で、柱穴は壁際に作られる例が日計式土器期から早稲田5類土器期まで存続する。炉跡は、物見台式土器期から地床炉の形態で出現するが、設置されている例は少なく、それ以前は他地域(関東地方など)と同様屋内には見られない。住居跡の平面形は、数の上では不整を含めて楕円形が多く、続いて円形、隅丸長方形から隅丸方形の順となり、楕円を含めて円の形態が建造しやすいという状況が存在したのであろう。
前期に入ると、関東地方の花積下層式土器に類似する長七谷地Ⅲ群土器の時期には楕円形、表館式土器期は隅丸長方形、早稲田6類土器期になると円形並びに隅丸長方形の平面形を持つ住居が造営される。前期中葉の円筒下層a及びb式土器の時期へ入ると、楕円形・円形の例が多く、方形と長方形は極めて少ない状況となり、前期終末の円筒下層d1・d2式土器期では、楕円形と円形が多数を占め、隅丸方形が若干見られる程度になる。また、この時期の住居跡には、炉跡が前半期には伴わぬようであり、円筒下層b式土器期に入って地床炉が現れ、下層d1式土器になるとその数が急激に増加するようである。
中期では、その初期に当たる円筒上層a式土器期に属する住居跡の発掘例は少なく、下北郡大畑町にある水木沢遺跡での事例によると隅丸方形である*185。中期中葉の円筒上層d式土器期に入ると、その数は急激に増加し、上北郡六ヶ所村尾駮の富ノ沢(2)遺跡では、発見された459軒の中で約18%に当たる82軒がこの期の住居跡であり、次の円筒上層e式土器期も同様の状況を示している。さらに、中期後半の榎林式土器期に入ると、数は増加して20%に達している。その後は逆に減少傾向となり、最花・中の平Ⅲ式土器期は約9%の数値になっている。なお、この時期の住居跡プランは、富ノ沢(2)遺跡によると楕円形が圧倒的に多く、形態の明白な239例中56%を占め、円形28%、隅丸長方形22%、隅丸方形17%、不整の五角形1.7%のような状況である*186。青森市の三内沢部遺跡においても*187、ほぼ似たような傾向を示すことから、縄文時代中期の住居跡プランは楕円形が主流となるようである。この時期の炉は、地床炉が多数を占めるが、円筒上層d式土器期から土器埋設炉、次の円筒上層e式土器期から石囲炉などが出現するようである。
後期になると、前半期の弥栄平(いやさかたい)(1)式土器期のものが、先の富ノ沢(2)遺跡で発掘され*188、それに続く十腰内Ⅰ群(式)土器期の例が県内各地で発見されている。さらに、十腰内Ⅱ~Ⅴ群(式)土器期へと変遷するが、住居跡の平面形は後期初頭において、楕円形を呈するものが発掘数の53%、次いで円形の45%、十腰内Ⅰ群(式)土器期になると、円形が多くなって逆転し52.3%、楕円形38.9%、隅丸方形2.2%となり、十腰内Ⅱ群(式)土器期以後は発見事例も少なくなるが、平面形は楕円形が円形を上回っている。炉跡は、地域による相違もあり、地床炉はもとより石囲炉も多い。例えば前述の水木沢遺跡を見ると、発見された後期の住居跡17例の中で、地床炉1例のほかはすべて石囲炉であった*189。
縄文時代の最後である晩期は、前時期の後期に比べて遺跡数も少なく、したがって住居跡も同様に発見例は少ない。本県での事例は、形状の明確でないものを含めてわずかに30軒(1993年現在)である。形状は、円形(不整円形を加えて)19、隅丸長方形3、円または楕円形3、不整楕円形1、形状不明4となっている。一般に小型の住居跡が多く、最小は三戸郡南郷村の三合山遺跡で発見された2.9m2の不整円形を呈するもの*190、最大は弘前市大森勝山遺跡における150.4m2である*191。炉跡は、地床炉が多数を占めるが石囲炉も次いで多く、さらに土器埋設炉、土器埋設プラス石囲炉となっている。共伴した土器から見ると、晩期初頭の大洞B式土器期のものが多く、次いで大洞C1、C2式土器などの順となっていた。
青森県の縄文時代に関する住居跡をプランを中心に追うと、以上のような変遷がとらえられる。
図24 縄文時代の住居(復元住居を含む)
見立山遺跡(早期)…八戸市
復元住居
左:晩期 弘前市・大森勝山遺跡
右:中期 青森市・三内沢部遺跡をモデルに
杉沢台遺跡(大型住居跡:前期)…秋田県能代市
復元住居
富山県朝日町・不動堂遺跡(中期)
円後谷地遺跡(後期)…八戸市
大森勝山遺跡(大型住居跡:晩期)…弘前市