3.縄文時代の集落

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 近年の緊急発掘調査は広大な面積を調査対象とし、それに伴って数々の新しい発見がもたらされている。昭和50年(1975)から52年にかけて行われた、東北新幹線の建設工事予定地における西田遺跡の発掘調査で、多数の遺構が検出された。この西田遺跡は、盛岡市に近い紫波町に所在する。それらの遺構は土壙群を中心として、同心円状に整然と配置されている状況がとらえられ、少なくとも縄文時代中期には、規則正しい集落構造等の存在したことが明確になったのである。発見された遺構は、中心部に200ほどの土壙群が放射状に配置されており、その外側を多数の柱穴群が取り巻き、さらにその外側を竪穴住居跡群が取り巻くという構造である*192。本県でも縄文時代中期における六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡の例を見ると、柱穴群(掘立柱建物跡群)の外側を多数の竪穴住居跡が取り巻く形での配置が見られ、この住居跡群の外側を大型住居が外縁を画する形で配置されていた。なお土壙群は、住居跡群より離れて西側のエリアに存在する*193
 同様の規則性を持つ集落は、縄文時代後期にも見られる。八戸市是川にある風張(1)遺跡では、中心部に遺構はほとんど見られず、土壙群が中心部を取り巻き、その外側に掘立柱建物跡群、さらにその外側を竪穴住居跡群が取り巻いている*194。また、縄文時代晩期には、三戸郡三戸町の泉山遺跡の例のように、土壙群を中心としてその外側に竪穴住居跡群が存在し、遺跡の西南側には環状列石が営まれており、中心部の墓域(土壙から埋葬人骨が出土している)と、それを取り巻く居住区域とに区分がなされていたのであろう*195。岩手県一戸町の御所野(ごしょの)遺跡でも、縄文時代中期後半期に中央部を整地して配石墓を造り、それよりも一段高い周囲に竪穴住居跡群があり*196、西田や風張(1)及び泉山などの各遺跡のように、幽界と現世が明確に分けられていた可能性があり、死後の世界に対するある種の観念の存在が考えられる。多数の人々による集団的な行為は、このほか環状列石の築造においても発揮されたであろう。これらの建造物の造営に当たっては、当然のことながら人々の尊敬を受け、一方では、人々を統率する人物が存在していた可能性が考えられよう。またこのような規則性を背景に考察すると、その統率力は極めて強力であり、強制力を持っていたことも推察できる。
 縄文時代の集落の中に、しばしば形状の大きな住居跡が発見される。本県では上北郡下田町の中野平遺跡において、第105号とされた長軸13.5m、短軸4.50m、面積48.09m2を計る長楕円形の竪穴住居跡があり*197、発掘された12軒の中では際立っている。このような事例は、六ヶ所村の表館(1)遺跡における第108号(長方形、9.4m×7.4m、面積57.54m2、早期末早稲田5類土器期)*198、八戸市の長七谷地貝塚の第1号(隅丸長方形、9.0m×7.2m、面積30.7m2、早期末葉の赤御堂式土器期)*199、八戸市河原木の売場遺跡第205号(隅丸長方形、東壁確認不可能により推定すると8.5m×5.6m、面積不明、早期末の早稲田5類ないし前期初頭の長七谷地Ⅲ群)*200、青森市近野遺跡第8号(長楕円形、19.5m×7.0m、面積約119m2、中期中葉の円筒上層d式土器期)*201、弘前市大森勝山遺跡(円形、13.77m×13.22m、面積150.4m2、晩期初頭の大洞B式土器期)*202などのほか、東北自動車道の建設予定地調査で発見された、南津軽郡大鰐町長峰の大平遺跡におけるJ-13号(楕円形、10.20m×7.30m、前期後半の円筒下層b式土器期)・J-24号(楕円形、12.40m×9.33m)・J-25号(楕円形、12.20m×9.10m)・J-26号(楕円形、12.10m×8.82m)等もある*203。なお、大平遺跡のこれら住居跡については、伴出の土器が不明のため時期を明確にとらえられないが、遺跡から出土する土器が前期の円筒下層a式から下層c式あたりのものであり、その範囲の時期に収まるのではないかと思われる。
 このような大型住居跡が注目され始めたのは、1973年(昭和48)に実施された、富山県下新川郡朝日町の不動堂遺跡調査以後であろう。当該遺跡の第2号住居跡は、長楕円形を呈し、長軸17.0m、短軸8.0m、面積115m2を計測したという*204。不動堂遺跡の調査を境として、東北地方北部でも発見が相次ぎ、岩手県では東北自動車道(八戸線を含む)や国道バイパスの建設等により、秋田県では農地開発改良事業などによる事前調査で大型住居跡が検出された。特に秋田県能代市磐の杉沢台遺跡にて発見された縄文時代前期末のSI07と称する住居跡は、小判形(長楕円形)を呈し、長軸は31.0m(推定)、短軸8.8m、面積222m2を計り、その南約25mの位置にあるSI44(長楕円形、長軸約23m、短軸9m、面積約210m2、前期末円筒下層d2式土器期)も、あまり変わらぬ大型住居跡であった*205
 以上のような大型住居跡に関して、名古屋大学の渡辺誠は〝雪国の生活と深い関わり〟を考え、その分布が積雪地帯に多いことを根拠に、秋に採集した大量の堅果類は屋根裏に貯蔵して乾燥保存し、炉跡が複数存在する点(例えば近野8号が4ヶ所、杉沢台はSI07が6ヶ所、SI44が9ヶ所)などから、サケの薫製を行い、また冬期の共同作業場として用いられたのではないかという見解を示した*206。恐らく、集落のなかの多目的集会所であったのだろう。これらの大型住居跡について、本来ならば集落の中の所在位置の確認や、他の住居跡との出土遺物の比較検討、床面や炉跡の土壌サンプルのフロテーション法などを実施すべきであろうが、遺構発見の範囲が道路の幅員のような限られた範囲を越えることが不可能という現状であり、集落のなかでの位置付けは将来への課題としておきたい。