この墳墓は、地表を楕円形・長楕円形(小判形など)・長方形に深さ50cm~1mほど掘り下げて、遺体を安置後覆土したものであり、縄文時代のみならず、その後も普遍的な葬法であった。昭和51年(1976)7月に、青森市三内丸山(Ⅱ)遺跡において57基の土壙(中期末)が発見され、しかもそれらの土壙は、南(A列)に24基、北(B列)に23基配列され、A列は北側が、B列は南側が若干高くなっており、遺体は両列の中央に向かって、向かい合う姿勢で埋葬されたのであろう*207。同年には、南津軽郡浪岡町の源常平(げんじょうたい)遺跡でも30を超える土壙(晩期)が発見され、その中の9基から、緑色凝灰岩・頁岩・硬玉製の小玉が出土し、また2基の土壙から土製の丹塗臼型(にぬりうすがた)耳飾りが発見されている。中でも13号土壙では、この耳飾りがあたかも遺体の耳に装着していたように相対する形で出土している。土壙内では、小玉類や耳飾りなどの発見された位置から想定すると、埋葬頭位は西向きであったと考えられている*208。
このような土壙墓の調査はその後も頻発し、昭和61年(1986)には、上北郡六ヶ所村上尾駮遺跡より320基(後期)*209、同村上尾駮(1)遺跡C地区では、晩期の土壙墓19基から硬玉並びに緑色凝灰岩製の小玉が約950個発見されている*210。
また、最近の事例としては、平成4年(1992)4月~11月にかけて行われた青森市高田の朝日山遺跡における調査によって、特に丘陵部斜面から444基にのぼる土壙が検出され、その内部から赤色顔料とともに硬玉製勾玉をはじめ、小玉類も多数出土している*211。なお、この遺跡は複合遺跡であり、各時期の遺構・遺物も出土しているが、当該土壙は晩期に属する。以上述べた土壙は、間違いなく墳墓(土壙墓)であろうと思うが、残念ながら内部から遺体を埋葬したという明らかな証拠となる人骨が残存していないため、状況証拠のみでの断定は難しい。今後は、脂肪酸分析を含めた自然科学部門の協力を得なければならないであろう。