(1)縄文時代の甕棺墓

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 大型の土器の中から人骨が入った状態で発見される遺構を、単に甕棺墓または改(再)葬甕棺墓と呼んでいる。ただし、遺骨の入った土器は甕形土器ではなく、多くの場合は壺形土器ないしは深鉢形土器である。
 本県では、当該遺跡に対する調査は古く、縄文時代における墳墓の調査研究は、この甕棺墓によって始まったと言えよう。大正6年(1917)9月、南津軽郡浪岡町北中野の天狗岱遺跡で最初の発見があり、当時は東京大学にいた笠井新也が調査し2基の甕棺を発見している。これらの甕棺は、蓋石を乗せた後に埋め戻し、その上部を河原石で覆ったもので、土器の内部から土に混じって人の大腿骨や骨盤等が見い出されたという。笠井は、この墳墓に対して洗骨式(埋葬後数年を経て掘り起し、骨を洗い清めた後に土器の中に入れて改葬する風習)という考えを提起した*232
 昭和8年(1933)11月、青森市久栗坂の山野峠(さんのとうげ)遺跡でも同様のものが発見され、東北大学の喜田貞吉と県の史跡調査委員であった佐々木新七が調査を行っている。山野峠遺跡の遺構は、扁平な石を利用して石室を造り、その内部に2~3個の甕棺が置かれており、同じような施設が3基掘り出されたという。甕棺の中から人骨も発見され、喜田は、これに対し笠井と同様な洗骨を伴った改葬を考えている*233。なお、両遺跡の時期は、後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期である。
 甕棺葬は、このほか類似するものも含めると、次のような例がある。
①…昭和30年(1955)8月に早・慶両大学連合調査団により、八戸市妙の蟹沢遺跡で前期の円筒下層d式土器内から発見された胎児骨の例*234
②…昭和42年(1967)南津軽郡平賀町唐竹の堀合Ⅰ号遺跡で発見された、後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期の甕棺2個*235
③…翌年5月に行われた慶応大学江坂輝彌らによる調査で、同遺跡から出土した人骨入り甕棺1個*236
④…昭和46年(1971)8月に近接する堀合Ⅱ号遺跡から、青森山田高校の葛西励らは人骨の入った中期の最花式(中の平Ⅲ式)深鉢形土器を発掘*237
⑤…同年9月、上北郡六ヶ所村尾駮の農林省上北馬鈴薯原原種農場内から、成人骨入りの後期十腰内Ⅰ群(式)土器期に属する甕棺を発見(人骨は18~19歳位の女性骨、頭部を基に復元され、〝縄文美人〟と称し、県立郷土館の考古部門ギャラリーに展示)*238
⑥…昭和47年(1972)5月、先述した平賀町の堀合Ⅰ号遺跡から葛西励らは2個の甕棺を発掘*239
⑦…同町唐竹の小金森遺跡で3個の甕棺を発掘。いずれも後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期に属する*240
⑧…昭和53年(1978)5月、三戸郡倉石村中市の薬師前遺跡で3個の土器(甕棺1個は正立、1個は倒立、深鉢形土器1個は倒立)が発見され、特に3号棺と称する深鉢形土器を被せていたその内部から、老年の女性骨1体分が発見された。この骨は、縄文時代後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期における甕棺葬法を知る重要な資料となった。葬法は、頭部を最下にして顔面を上に向け、頭骨を中心にその周りに四肢骨を立て、四肢骨で囲んだ内部つまり顔面上に肋骨・脊椎・腰骨・手足の指骨を入れ、さらにその上にはイノシシの牙を半截して製作した11枚の装身具(垂飾品)が乗っており、ベンケイガイ製の貝輪破片が8枚ほど頭頂付近で、一方立てられていた上腕骨に7枚の同製貝輪がはまった状態で発見されたのである*241
 後期に続く晩期の時期にも、同様の葬法は受け継がれていたらしい。ただし、発見例は極度に少なくなっている。事例を紹介すると、昭和34年(1959)5月、三戸郡名川町平の前ノ沢で発見された1個の合口甕棺(高さ55cmの壺形土器に、深鉢形土器を倒立させて蓋の役割をさせていた)があり、内部に幼児骨とイノシシの牙を利用した垂飾品7枚、碧玉製らしい臼玉1個が副葬品として収められていたという。この合口甕棺は、晩期中葉の大洞C2式土器のようである*242