古代人の行動の痕跡として残された場所を「遺跡」として認識し、しかも学問的な観点から発掘調査が本県で初めて行われたのは明治19年(1886)である。この年、廣澤安任が東京人類学会に上北発見の竪穴住居について報告した*1。その後、佐藤重紀*2*3・佐藤伝蔵*4らの調査報告が、相次いで東京人類学会誌『東京人類学会報告』に発表されている。特に佐藤伝蔵は、明治30年に西津軽郡森田村八重菊などの遺跡で、5軒の竪穴住居跡を発掘している。実際は平安時代の集落跡であるが、現在のように竪穴全体を調査するまでには至らず、年代観についても、当時の東京大学教授坪井正五郎の「コロポックル(蕗の下の人)」住居説に影響を受け、石器時代とした見解が示された。
昭和2年(1927)には、本県の古代集落遺跡研究の基礎となった佐々木新七による『七戸附近先住民族遺跡調査報告』が出されている*5。これには古代の竪穴住居の構造が具体的に示され、しかも各遺跡の炉(かまど)の構造や素材上での分類、あるいは須恵器や土師器などの土器類のほか、直刀・刀子などの鉄製品の出土遺物について具体的な報告が行われている。また、埋まり切らない竪穴の分布は、具体的遺跡名を上げて県内のほぼ全域に分布していることを示した。
さらに年代的には、当時わが国の古代史をリードしていた喜田貞吉が「東北北部の石器時代終末は中世まで」説*6を唱えていた中、文献に見える蝦夷征伐の時期を指向しており、この意味においてもこの報告は、本県古代考古学の礎ともなった報告である。