(2)太平洋戦争後から現代まで

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 この時期は、戦時中の皇国史観から脱却し、歴史考古学の分野での本格的な研究が開始された時期から、今日までの飛躍的な発展を遂げた時期である。
 昭和20年代の後半から30年代には、在京の研究者を中心として本県の考古学調査が活発に行われた時期である。昭和26年(1951)には明治大学の後藤守一・岩月康典らによる東通村将木館(しょうぎだて)遺跡の調査が行われ、環濠内と外の竪穴住居跡を3軒検出している*10。これまでは東北地方北部で円形の窪地として確認されている多くの竪穴住居跡の構造は、すべて円形プランをなすものと見られていたが、この段階で初めて関東地方の古代竪穴住居と同様に、方形プランで壁際に作りつけのかまどを持つ構造であることが明らかにされている。また、環濠については、内部の竪穴群と同時期のもので、西日本の弥生時代の環濠集落のように「外敵に対する備え」としてとらえ、今日の東北地方北部の「防御性集落」論の基礎をなした。また、時代的には、国分式土器と平行するロクロ製土師器と擦文式土器から、「奈良朝の初頭期」と推定した。略報資料に図面類は提示されていないが、文章からは10世紀後半ころの年代観が考えられる。なお、本県での擦文土器についての発掘例としても、またロクロ製土師器との共伴例としても初現であり、本州擦文文化の今日的課題が提示された特筆される調査として位置づけられよう。
 昭和27(1952)・28年には早稲田大学桜井清彦らによる森田村八重菊遺跡*13*14、また、昭和26年には弘前市の成田末五郎・戸沢武による鰺ヶ沢谷口遺跡で、平安時代の竪穴住居跡が調査されている。
 昭和28年(1953)には、慶応義塾大学江坂輝弥による東通村稲崎遺跡*15*16、東京大学斎藤忠らによる野辺地町明前(みょうまえ)遺跡*31、桜井清彦らによる市浦村十三中島遺跡の調査が行われ、それぞれ大きな成果が得られている。明前遺跡では古代の防御性集落の構造面で、また、十三中島遺跡では奈良時代の土師器が発見され、後の土師器編年の標式とされた点で特筆される*30。昭和29年(1954)は、東京大学東洋文化研究所の江上波夫・関野雄・桜井清彦らにより市浦村福島城跡*32・赤坂遺跡・鰊崎遺跡が調査され、古代・中世の注目される成果が得られた年である。これらの成果は、昭和33年(1958)『館址』に発表された。中でも桜井による東北地方北部の土師器編年に関する論稿は、その後の青森県の古代遺跡の年代観の指標となった。なお、土師器編年に関しては、北日本に多大な影響を与えた氏家和典による「東北土師器の型式分類とその編年」がその前年(昭和32年)に発表されている*27
 昭和33年(1958)は本県古代史にとって二つの点で画期的な年である。一つは、八戸市鹿島沢古墳群の発見であり*37、もう一つは岩木山麓で開始された大規模発掘調査である。前者は本県で発見された終末期古墳の最初の調査として、後者は我が国の最初の大規模調査として特筆される。なお、後者は昭和36年(1961)まで継続して調査が行われ、その間、大館森山製鉄遺跡・大平野遺跡・若山遺跡の古代の各製鉄関連遺跡(製鉄炉群)や、大館森山遺跡などの防御性集落の一部が調査され、その成果が昭和43年(1968)『岩木山』として報告された。岩木山東麓から北麓にかけて、密度の濃い分布が認められる製鉄関連遺跡の性格やその歴史的位置づけについては、青森県の古代史の、今日的課題として評価される重要な遺跡である。
 昭和38年(1963)には立教大学による六ヶ所村追館遺跡、昭和39年には尾上町教育委員会による八幡崎(やわたざき)遺跡*40、昭和40年には中里町による深郷田(ふこうだ)遺跡*41、音喜多富寿による八戸市子森遺跡、昭和41年(1966)には渡辺誠による東通村割石(わりいし)遺跡*58が調査され、古代の住居跡や遺物が発見されている。
 昭和42年(1967)には、本県の須恵器研究で画期的な発見があった。五所川原市在住の秋元省三・新谷武らによる五所川原市前田野目地区における、本州最北の須恵器窯跡の発見である。当時我が国の須恵器研究の第一線で活躍していた立正大学坂詰秀一らによって調査が行われ*327*328、窯構造や出土須恵器の内容が明らかにされた。前田野目地区の窯跡群についてはその後、坂詰秀一・村越潔・新谷武*325*329らによって昭和48年(1973)までに断続的に調査され、その実態が明らかにされつつある。なお、この窯跡群の年代観や歴史的な評価については、その後、桑原滋郎・三浦圭介ら*279*290*296の論稿がある。
 昭和40年代中ごろは平山久夫・橘善光・北林八洲晴らによる精力的な分布調査により、古代遺跡が飛躍的に発見されている。平山は津軽平野を*67、橘は下北半島を中心に、また北林は陸奥湾沿岸をそれぞれ主なフィールドとして調査した。平山は須恵器67、橘は擦文や続縄文土器*82*88*102~*104で、北林は製塩土器*70*109で、それぞれ大きな成果を得ている。
 昭和48年(1973)には、青森県教育委員会に文化課が新設されると同時に、多数の考古学専門職員が配置され、大規模行政調査が本格的に開始された。県営総合運動公園関係の青森市近野(ちかの)遺跡*119*143・東北自動車道関係の黒石市浅瀬石遺跡*319・高館遺跡*158・浪岡町源常平(げんじょうたい)遺跡*157・大鰐町砂沢平遺跡*320・碇ヶ関村古館遺跡*185・平賀町鳥海山遺跡などの多くの古代の大規模集落の調査が行われ、集落の構造や生活の実態が明らかにされた。
 なかでも、古館遺跡や砂沢平遺跡の防御機能を持った集落は、古代末期の東北北部の社会構造を論ずる上で、貴重な資料として位置づけられる。なお、古代の防御性集落の調査では、早稲田大学による蓬田大館遺跡(昭和59年・1984)*257、八戸市風張(1)遺跡(昭和62年・1987)321の調査が注目される。
 この後、昭和53年(1978)には青森県埋蔵文化財調査センターが発足し、李平(すもだい)下安原遺跡*262(昭和62年・1987)・弘前市独狐遺跡*243(昭和61年)など多くの集落遺跡を中心に大規模調査が行われたが、中でも製鉄関連遺跡の鰺ヶ沢町杢沢遺跡*318(昭和63年・1988)、奥州藤原氏期の城館である弘前市中崎館遺跡*275(平成元年・1989)などは特筆される。
 また、この間、市町村教育委員会が主体となった調査も各地で行われている。集落遺跡では青森市蛍沢(ほたるざわ)遺跡(昭和57年・1982)、八戸市田面木平(たものきたい)遺跡(昭和60年・1985、61年)、根城本丸跡(昭和58年・1983)、湯浅屋新田遺跡(昭和62年・1987)などがある。特に八戸市を中心とする馬淵川・新井田川流域では、7世紀から8世紀の集落跡が集中して発見され、本県での空白期の後半期の様相を解明する点で注目されるが、これらについては宇部則保*322の論考がある。
 また同時に、南部地方を中心として終末期古墳群の調査が行われている。八戸市丹後平古墳群*289・殿見古墳群・下田町阿光坊古墳群・三沢市平畑古墳群の調査が平成元年(1989)から平成5年(1993)の間に行われている。一方、津軽地方においても葛西励・高橋潤らによって尾上町原古墳群が*323調査され、終末期古墳が全県的に分布することが明らかになった。なお、これらは従来北海道石狩低地帯を中心に発見された「北海道式古墳」と呼ばれるものと類似し、その関連性が強く指摘されている。
 平成4年(1992)・5年(1993)には本県の古代史上二つの大きな成果が得られている。いずれも、国立歴史民俗博物館を主体とする調査であり、一つは、5世紀を中心とする時期の天間林村森ヶ沢遺跡の集団墓地の調査*330、一つは市浦村福島城の調査*331である。前者は文献資料のみならず考古資料においても空白の時代のものであり、未報告ではあるがこの調査成果の中に古墳時代相当期の本県の多くの問題が集約されている。また後者は、従来中世安藤氏の居城とされてきたものであるが、この調査の結果、中世的要素が乏しく、出土遺物からは逆に古代末期(10世紀代~11世紀代)の可能性が提示された。
 以上、遺跡の調査を中心に略述したが、調査の成果は各々の報告書や多くの研究論文等で発表され、遺跡の意味づけが行われており、それには、それぞれの時代の古代史観が反映されている。その根幹をなすものに「蝦夷論」がある。この問題については、明治から昭和40年代までは文献史学による積極的なアプローチがあり、考古資料はその補助的な役割を担ったにすぎなかったが、昭和50年代以後、考古資料が急激に増加し、社会構造や生活の実態が徐々に明らかにされていくと同時に、従来の「蝦夷論」に修正を加えるものとなった。これには本県よりもむしろ、東北地方南部の城柵・官衙(かんが)遺跡研究や生産遺跡、あるいは北海道擦文文化研究の中での成果が大きく影響している。
 明治以後、「蝦夷論」の根底には常に「アイヌ説」「非アイヌ説」があり、前者は長く文献史料研究に支えられてきた。昭和30年代までの断片的な考古学研究も、結果的にはそれを補う役割を果たした面もあったが、昭和40年代から50年代にかけてはそれを修正する見解が出された。
 弥生時代の本県の稲作の痕跡や、古墳文化特有の祭祀遺物である石製模造品の分布などから、東北北部も古墳文化の圏内にあり、人種的にも東北南部と同様とした伊東信雄*332・氏家和典*333らによる説である。
 昭和50年代後半から近年まで、遺跡調査の事例が東北各地で飛躍的に増加すると、同じ東北地方の中でも、本県を中心とする北部地域と南部地域の違いが、時代とともに変化することが明らかになり、しかも形質人類学研究の進展とともに、「蝦夷論」は新しい展開を迎えることになった。工藤雅樹らによる説、「東北の古代蝦夷を定義するなら、途中まではアイヌ民族となる人々とほぼ同じ歴史を歩んだ人たちであるとも表現できるし、東日本人のなかで最後に日本民族化した人々といってもよいであろう」*334に集約されており、近年の考古学研究者は、概ねこの見解を支持している。
 近年は「蝦夷論」からさらに一歩進み、各時代の土器編年作業の進展に伴い、生業の具体的な内容(農業・窯業・鉄生産・塩業・馬産・漁業)や集落構造、あるいは種々の文物を通して、内部社会の構造や文化の内容、あるいは国家(律令国家・王朝国家)や北方地域との関係についても明らかにされつつある。しかも東北古代史の中での北部地域、中でも津軽地方が果たした役割について高い評価*298*299*303*306*324がなされつつある。