1.古墳時代の概観

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 近年の考古学研究において、4世紀から6世紀までの古墳時代併行期には、東北地方に二つの文化が併存していたことが明らかになってきた。一つは福島県・宮城県・山形県を中心とする東北地方南部の古墳文化であり、もう一つは青森県・秋田県・岩手県などの北部地域の続縄文文化である。両文化は密接な関係を持ちながらも、生産基盤や社会構造の違いから融合することなく、それぞれ独自の発展をみた。
 古墳文化は、西日本を中心として発展した文化で、弥生時代後期ころに米を主体とする農業生産物の蓄積を背景として階級が発生・拡大し、佐賀県吉野ケ里遺跡に見られるように、共同体の内部に強権をもった支配者層が生まれ、それを中心とした小地域国家が形成され始める。
 これが4世紀の初めころになると、支配者層は支配圏をいっそう拡大するとともに、自らの権力を誇示する目的で、前方後円墳のような巨大墳墓を造り始めた。これが古墳時代の始まりとされている。この巨大墳墓の被葬者は、政治・経済・宗教などすべてにおいて最高の権力を持った支配者であり、中でも畿内に君臨した首長は徐々に近隣の地域をその支配下に収め、勢力を拡大していった。
 東北地方においては、古墳時代前期(4世紀)に属する福島県会津大塚山古墳や宮城県遠見塚古墳をはじめとして、この時期の古墳が東北南部地域に50基前後確認されている。この中には、雷神山古墳(168m)・遠見塚古墳(110m)・亀ヶ森古墳(127m)・会津大塚山古墳(114m)など、全長100mを超す大型古墳と、20~30mの小型古墳がある。この2種類の古墳の関係は、平野部を中心とした河川流域全体を統括した支配者と、それと服属関係にある小地域の支配者との関係が指摘されている。
 次の古墳時代中期(5世紀)になると、この前方後円墳の分布密度はさらに濃くなり、範囲も大きく拡大する。日本最北の前方後円墳は、岩手県胆沢町の角塚(つのづか)古墳であるが、この古墳の築造はこのような社会の動きと直接連動したものと考えられている。全長45mを有する角塚古墳の築造者は、岩手県南部地方全域を支配下に収めたことは想像に難くないが、この時期、青森県内にもガラス玉、石製模造品、鉄器、須恵器、土師器などの古墳文化の文物が多くなり、その関係が注目される。
 さらに、古墳時代後期(6世紀~7世紀前半)になると、この前方後円墳も小型化し、しかも埋葬施設も横穴式石棺や横穴墓に変容する。これに呼応する形で、青森県においても阿光坊古墳群や、鹿島沢古墳群などの終末期古墳と呼ばれる小墳墓がこの時期に出現し、平安時代前期(9世紀後葉)まで続く。
 一方、この時期、東北地方北部地域から北海道にかけては、続縄文文化が展開している。「続縄文文化」の名称は山内清男によるもので、その主要な生産基盤を縄文時代と同様、漁労・狩猟・採集に置き、縄文文化の伝統を保持したとした。当初は、弥生時代に東北地方北部地域を含めた広域に展開する文化と見られたが、今日では、砂沢遺跡や垂柳遺跡など、稲作農耕を伴う本県は、東北南部同様に弥生文化として評価され、4世紀~6世紀ころが続縄文文化として把握されている。
 この続縄文文化は、稲作農耕を主とする弥生文化と対峙(たいじ)する文化として弥生時代、北海道においてその成立が求められている。さらに、北海道においては7世紀まで存続し、次の擦文文化への橋渡しをなしたとされている。北海道での名称は恵山式(弥生時代中・後期)・後北式(弥生時代後期~古墳時代前期)・北大式(古墳時代中期~飛鳥時代)で、それぞれが数型式に細分されている。
 青森県では、弥生時代後期ころに始まった気候寒冷化に伴い、稲作農耕の衰退とともに、この北海道続縄文文化の影響を少なくとも5世紀後半ごろまでは色濃く受けることになる。ただし、この文化の受容の有り方は一様ではなく、各時代によって変化が見られる。以下、本県の各遺跡や遺物を通し、その内容を概観する。