飛鳥時代から奈良時代にかけての7~8世紀は、本県にとっても遺跡の数が増加する時期である。特に、7世紀後半から8世紀代はその傾向が強い。この背景には、3世紀ごろに始まった地球規模の寒冷化現象が、この時期に温暖化に向かい、農業生産物の飛躍的な増収、集落の定着化と人口の増加をもたらした結果と考えられている。一方、政治的な要因としては、古代律令国家による東北経営(軍事的圧迫)の結果も考えられる。
本県全体では、これまで確認されている該時期の遺跡は約50遺跡に達しており、前代の古墳時代併行期とは大きく変化する。弘前市内では中野遺跡(8世紀)が該当する。遺跡の内容は、古墳時代併行期においては狩猟・採集を生活の基盤とした移動生活のため、集落としての痕跡が未形成であったものが、この時期には竪穴住居を基本とした定住的集落が形成されるようになる。特に竪穴住居においては、方形の住居プランを持ち、作りつけのかまどが各戸に設置され、しかも集落毎にいくつかの高床式の倉庫を持つなど、集落構造は東北地方南部や関東地方の一般農村集落と酷似する内容となっている。
また、集落内には「村長(むらおさ)」と見られる一般住居より一回り規模の大きな竪穴があり、これを中心として集落が営まれていたことも判明している。なお、社会全体としては部族社会が形成されていたと考えられている。
農業生産においては、米の他にアワ・キビ・ヒエ・豆類等の雑穀栽培を主体に、シソ・アブラナ類の栽培が確認されている。『日本書紀』斉明天皇5年(659)に「五穀」無と記され、文献的には中世以後とされる本県での稲作や雑穀栽培が、少なくとも7世紀までは確実にさかのぼることが明らかになっている。土器生産においては、須恵器は北陸や東北地方南部以南地域からの移入品で需要を満しているものの、土師器は全て在地生産が行われており、器種には甕・坏・高坏・甑(こしき)がある。中でも甑の定着は、前述した農業生産物の中でとりわけ「米」を考慮すると、食生活上においても前代とは大きく変化したことがうかがえる。
土師器製作の上での特徴は、器面調整における「磨き手法」の多用化と器形上にうかがえる。これらの特徴は、東北北部全域と北海道のほぼ全域に共通するものであり、古墳時代併行期の続縄文(後北式・北大式)文化圏とほぼ重復する。このことは、この地域の土師器文化が続縄文文化を基盤として成立したことを意味するものと言えよう。
7~8世紀は文献上では「蝦夷」が登場し、越国守阿倍臣比羅夫による日本海北征や、律令国家による北日本支配が活発に行われた時代でもある。とりわけ、律令国家による古代城柵を拠点とした「蝦夷」対策は、この時期、武力による制圧も活発に行われ、対峙する本県にも蕨手刀や鉄鏃などの武器や武具の出土例も多い。
また、この時期には北日本特有の終末期古墳と呼ばれる小円墳が築造されている。この小円墳は、「部族長」あるいは「戸主」層クラスの墳墓とされており、副葬品には在地生産物のほかに、西日本や北方地域から入手した文物も多数見られる。