11世紀後半から12世紀前葉期にかけては、遺跡の内容がまだ十分把握されておらず不明な点が多い。12世紀中葉から末期にかけては、近年相次いで注目される遺跡が発見されている。この時期は、奥州藤原氏の隆盛期に当たる。この時代の本県の遺跡は、青森市内真部(うちまっぺ)遺跡、弘前市境関館遺跡、浪岡城内館跡、市浦村十三湊遺跡、弘前市中崎館遺跡、蓬田村蓬田大館遺跡などの16遺跡で、そのほとんどが津軽地方のものであり、県南地方では2遺跡しか発見されていない。中でも、弘前市中崎館遺跡は、平泉藤原氏の政庁跡とされる柳之御所跡との関係が極めて強く認められる点で注目される。このほか、行政区域的には秋田県大館市ではあるが、本県との県境にある矢立廃寺がある。
これらの遺跡では、青磁や白磁などの中国製陶磁器や、常滑(とこなめ)・渥美(あつみ)・珠洲(すず)焼などの国産陶器が出土している。また、同時にロクロ製や手づくね製の二種類の「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器も出土している。「かわらけ」は、京都風の晴れの宴席で使用されるもので、平泉の都市域の中では普遍的に出土している。しかし、都市域を離れると「かわらけ」の出土する遺跡は極めて限定されるにもかかわらず、津軽地方には前述のような遺跡が分布する。
12世紀の津軽地方を中心とする地域は、遺跡の数、あるいは出土遺物の中での、「かわらけ」や中国製陶磁器・国産陶磁器が、それぞれに平泉の都市域やその周辺、あるいはそれと深く係わる地域以外とは様相を異にする事を指摘できる。平泉とは、直線距離にして約200キロメートルも離れた北辺の地であるにもかかわらず、その内容は、平泉やその周辺地域と極めて類似した様相を示しており特筆される。特に、弘前市中崎館遺跡においては、各遺物が質・量ともに平泉の都市域のそれに準ずるものと言えよう。この遺跡は、平泉と直接関わる小規模な出先機関としての性格が想定される。ほかの遺跡も、おおむね平泉とのかかわりが考えられる。