図9 9世紀前葉~10世紀中葉の集落跡(青森市近野遺跡)
図10 9世紀の集落跡(浪岡町松元遺跡)
図11 9世紀後半~10世紀前半の集落跡(浪岡町山元(2)遺跡)
図12 9世紀末~10世紀前半期の集落跡(青森市三内遺跡)
これらの集落も立地は、前代の7~8世紀のものと同様に、沖積平野を望む低丘陵の先端部や河岸段丘の高位面などである。一部には沖積平野の微高地上や、山間部に進出するものも認められ、稲作農耕の発展による耕地の拡大化が指摘される。特に、9世紀後半から10世紀にかけてその傾向が強く認められる。また、この時期には集落の数も飛躍的に増加する。
住居の構造は前代と同じく、方形の竪穴で一つの壁際に作りつけのかまどを設置する点は同じであるが、柱の配置、かまどの構造や設置位置など細部に変化がある。また、一部では竪穴外側に外周溝を巡らせたり、あるいは竪穴に付属させた2間×3間の掘立柱建物を持つなど、前代とは大きく異なる構造のものも出現する。
竪穴外に掘立柱の建物を付属させる建物は、津軽地方を中心に、一部県南地方、あるいは秋田県北にも認められるが、基本的には青森県域に限定されるものである。これには馬屋説、作業場説等があるが確定していない。また、外周溝は竪穴を囲うものと、前述の掘立柱建物を含む全体を囲うものがあるが、いずれも機能的には排水施設と考えられている。これも本県に圧倒的に多い施設である。前代の8世紀には、一部宮城県北の大境山(おおさかいやま)遺跡など陸奥国域の一部でも確認されていることから、その関連性(例えば集団移住等)も注目されるところである。
一般的な住居やかまどの構造は、基本的に律令体制に組み込まれた陸奥・出羽両国の一般集落のものとほとんど異なる点がなく、この意味においても両地域との文化的差は認められない。
図17 9世紀の竪穴住居跡
図18 9世紀~10世紀の竪穴住居跡