(3)10世紀後半~11世紀

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 この時期には、集落の立地形態に大きな変化が現れる。それは従来の立地から、平野部との比高差数十mという高い位置の丘陵先端部に集落を構え、それを保塞する空堀や柵列などの施設を持った防御性集落の出現である。これには、小友遺跡(弘前市)・石川長者森遺跡(弘前市)・大平野遺跡(弘前市)・古館遺跡(碇ヶ関村)・砂沢平遺跡(大鰐町)・中里城跡(中里町)などに見られるような、集落全体を諸施設で同時に保塞する「津軽型防御性集落」と、上北地方を中心に東通村から岩手県北部の太平洋岸にかけて分布し、集落の中心的な施設(村長の住居と関連の施設か?)だけを空堀や土塁で囲み、その後背地の平場に十軒~数十軒の竪穴住居を配置する「上北型防御性集落」がある。これには、戸鎖館(六ヶ所村)・鷹架沼(たかほこ)竪穴遺跡(六ヶ所村)・明前館遺跡(野辺地町)・風張(1)遺跡(八戸市)などがあり、これまで20前後の遺跡が確認されている。
 この時期には、津軽型あるいは上北型の防御性集落のほかに、津軽平野の徴高地上に進出した石上神社遺跡(木造町)・久米川(くめがわ)遺跡(稲垣村)などの集落や、低平台地や丘陵上に立地するものの、防御施設を持たない永野遺跡(碇ヶ関村)・朝日山遺跡(青森市)なども存在する。

図13 10世紀の集落跡(大鰐町大平遺跡)


図14 津軽型防御性集落(11世紀,碇ヶ関村古館遺跡)


図15 津軽型防御性集落(11世紀,大鰐町砂沢平遺跡)


砂沢平遺跡地形図

 この時期の集落を構成する建物では、作りつけのかまどをもった竪穴住居跡と総柱の掘立柱建物跡(倉庫)、竪穴構造の工房跡であり、基本的には前代のものと同様である。
 竪穴住居跡は、柱の配置に前代とは大きな変化が認められる。それは、前代では4本の主柱を基本としていたものが、壁際に多数の柱を配置する「壁立(かべだち)構造」のものに変化する。
 また、永野遺跡(碇ヶ関村)や源常平遺跡(浪岡町)のように、貯蔵庫と推定される張出施設を付属させるものも出現する。なお、11世紀をもって日常的な竪穴住居はなくなり、掘立柱建物の構造に変化するとされている。

図19 10世紀~11世紀の竪穴住居跡


図20 竪穴住居跡と出土遺物(10世紀前半)


図21 竪穴住居跡と出土遺物(10世紀前半)