-鉄生産遺構と製鉄炉の性格-

234 ~ 237 / 649ページ
 鉄生産のうち、最も基本となる製鋼の方法には、鉄原料(砂鉄・鉄鉱石)を、製鉄炉の中で木炭を用いて還元して得られた鉄塊から鋼部分を取り出し、それを鍛練して鉄素材を作る「直接製鋼法」と、製鉄炉で原料となる鉱石を製錬して銑鉄を作り、それを再度、小型の炉で精錬して鋼を製造する「間接製鋼法」の二つの方法が知られている。
 従来、大館森山遺跡や大平野遺跡など、岩木山麓で検出されていた製鉄炉(半地下式竪形炉)は前者(直接製鋼法)の性格を持ち、しかも始発原料が砂鉄であるとされていたが、近年の赤沼英男(岩手県立博物館)の精力的な金属学的分析により、後者の「間接製鋼法」の炉であることが明らかになった。当然ながら、この二種類の炉には構造上の違いも指摘されることとなった。このように、製鉄炉と言っても性格的には製錬炉と精錬炉との違いがある。鉄生産の工程には、これらの炉の操業の後に、鉄の純度を高めるために鍛造し、含有する炭素の量を調整して鉄素材を作る段階(大鍛冶)や、この素材から製品を作る段階(小鍛冶)のそれぞれの工程が知られている。
 これらの工程は、すべて基本的に専業集団によるものとの見方もあるが、小鍛冶については、場所を異にした一般集落の特定の人間が行ったとする指摘もある。鉄生産遺構とする場合には、この製・精錬遺構(製鉄炉)を指す場合が多いが、実際鉄生産遺跡には製鉄炉のほか、作業場・水場(井戸・用水路・排水路)・木炭窯・原材料置場・ふいご座・鉄滓の捨て場及び工人集団の居住場などが付随することが知られている。これらも、本来的には鉄生産遺構と見なすことが必要である。

図25 製鉄炉群を含む工人集団の集落跡

 東北地方北部の古代の製鉄遺跡は、米代川流域と岩木山麓に集中的に検出されており、いずれも古代後期(平安時代)の操業年代が与えられている。中でも、岩木山麓では前述したように、大平野Ⅲ号遺跡・大館森山遺跡・杢沢遺跡(旧若山遺跡)などがある。このほか、青森平野に面した丘陵地にある朝日山遺跡がある。昭和34年(1959)の調査で、大平野Ⅲ号遺跡ではA・B・Cの3地点からそれぞれ2基・5基・3基の合計10基の半地下式竪形炉が、また、大館森山遺跡では4基の半地下式竪形炉が検出されている。いずれも、数十m2の小面積の調査で遺跡全体の様相は不明であるが、地形や関連遺物の散布状態から、大規模な製鉄関連遺跡と考えられている。特に、大館森山遺跡からは、11世紀代の集落跡も検出されている。朝日山遺跡では、平成4年(1992)の調査で、半地下式竪形炉1基と鍛冶場跡1基、更に9世紀から11世紀にかけての多数の竪穴住居群が検出されている。

図29 製鉄炉(上-大館森山遺跡、下-大平野Ⅲ-B号炉)

 杢沢遺跡は、昭和34年(1959)の調査では若山遺跡として把握され、半地下式竪形炉が検出されていたが、津軽中部広域農道建設事業にかかわる昭和63年(1988)の調査では、半地下式竪形炉34基・鍛冶場跡3基・炭窯3基・井戸跡3基・焼土遺構4基・溝跡6条等のほかに、鍛冶集団の竪穴住居跡21軒が検出された。しかも、各遺構に伴う製鉄関連遺物(鉄器・鉄滓・砂鉄・羽口等)や生活遺物(土師器・須恵器・擦文土器・土錘・土玉・炭化米・木製品等)等、膨大な量が出土した。製鉄関連遺構や工人集団の住居跡は、出土した土師器・須恵器・擦文土器の年代観や、白頭山降下火山灰(10世紀第2四半期の降下が想定)の年代観から、10世紀中葉から11世紀初頭が与えられ、この間の操業が推定されている。
 このほか、岩木山の北麓から西麓にかけては多くの地点で鉄滓が確認されており、古代において一大製鉄地帯となっていたものと考えられている。岩木山麓で検出された各遺跡の半地下式竪形炉の一般的な構造は、長軸60cm~120cm・短軸20cm~40cmの長方形ないしは馬蹄形で、20cmほどの深さの掘り込みをもって作られている。また、炉本体や炉底も、斜面の傾斜に沿った形で構築されており、この斜面下端には排滓口や作業施設が設けられている。左右壁には羽口の挿入痕跡がなく、羽口は炉体の上端に設置されたものと考えられている。炉壁は粘土で作られ、数回の改築があるのも特徴の一つである。このような構造を持つものは、米代川流域の寒川Ⅱ遺跡(能代市)や大平遺跡(昭和町)でも認められている。いずれの場合でもこの特徴は、小型であることや、送風管(羽口)の装着が単独で、しかも炉体上端にのみ装着されていることなどである。
 杢沢遺跡では当初、砂鉄に含まれるチタン化合物が検出されたことから始発原料を砂鉄としたが、前述した赤沼氏の近年の金属学的解析では、鉄鉱石に特有に含まれるリンの存在から鉄鉱石が始発原料であることが明らかになった。磁鉄鉱と原料鉱石として得られた鉄塊(銑塊)に、脱炭材として加えられた砂鉄によって、鉄浴中のチタン化合物が生成されたものと指摘されている。遺跡周辺から採取される砂鉄と炉に伴う鉄滓の科学組成との間には相関関係がなく、遺跡周辺から採取される砂鉄は、始発原料としての銑鉄の可能性はないと指摘されている。
 炉の構造や上記のような金属学的解析結果から、杢沢遺跡の半地下式竪形炉は「間接製鋼法」の精錬炉であることが判明したが、このことは、原料となる磁鉄鉱を製錬して銑鉄を作り出し、その銑鉄を再び小型の炉に入れて精錬し、調整された炭素含有量の鋼を製造するという高度な技術の下で行われた精錬炉であることを示している。

図26 杢沢遺跡製鉄炉(1)


図27 杢沢遺跡製鉄炉(2)

 岩木山麓や、米代川流域での他の半地下式竪形炉も、基本的にはこの杢沢遺跡のものと同一技術下にあったことは容易に推定できる。
 一方、磁鉄鉱から鉄塊(銑塊)を取り出す製錬炉はこの地方のみならず、我が国ではこれまでのところ発見されていない。また、リン分を含有した磁鉄鉱の鉱床そのものも近江周辺にあるとされるが、周辺に製錬炉が発見されていないことから、この鉄塊(銑塊)は大陸から輸入された可能性も指摘されている。