〈2〉津軽地方で生産された須恵器

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 須恵器は、登窯によって1000℃以上の高温でしかも還元状態で焼かれた灰色ないしは灰黒色の硬質の土器である。古墳時代中期(5世紀中葉~後葉)に、朝鮮から渡来した工人によって製作されたことが『日本書紀』にも記載されている。それ以後古墳時代後期においては、朝廷及び地方豪族の支配の下に各地で生産され、さらに7世紀後半以後10世紀までの古代律令国家においては各国の郡単位での生産が行われた。
 青森県内には、5世紀以後、畿内・東海・北陸・東北南部から散発的に供給されてきたが、窯が築かれ生産が開始されたのは9世紀末葉~10世紀初頭になってからである。築窯された場所は、弘前市の北方約30kmの津軽半島の中央部を南北に走る中山山脈の南端、梵珠山(標高468m)系の西側に発達した小河川流域である。特に、分布密度が濃いのは、岩木川に注ぐ十川の支流、前田野目川の流域である。現在の行政区域では、五所川原市から浪岡町にかけての地域である。なお、青森県では現段階での須恵器窯は、この地域以外には確認されていない。この窯跡群は昭和42年(1967)に発見され、当時、古代律令体制と密接な関係を持つとされた須恵器生産が、律令体制外とされる津軽地方においても生産されていることで、注目を浴びた。
 この後、坂詰秀一(立正大学)・村越潔(弘前大学)・新谷武(五所川原市)・秋元省三(五所川原市)らによって発掘・分布調査が精力的に行われ、これまで17地点で窯跡が確認されている。このうち、発掘調査が行われたのは、砂田B-1号窯、鞠ノ沢A窯、持子沢B窯、持子沢D窯、砂田D-1窯、砂田D-2窯、桜ケ峰窯の7基である。

図72 津軽五所川原須恵器窯跡分布図

 また、これまで報告書が刊行されているのは、砂田B-1号窯、鞠ノ沢A窯のみで、他は概報だけであり詳細が明らかでないものが多い。このため、窯跡基準資料としての位置づけに難があったが、近年、消費地である集落遺跡の調査が進むとともに、生産量の多さ、広範囲な供給先(東北地方北部から北海道全域)が認識され始め、さらに消費地での多くの共伴遺物から、年代推定作業が行われつつある。
 なお、この古窯跡群の名称については、「前田野目窯跡群」、「五所川原古窯跡群」などがあるが、「前田野目古窯跡群」はこの地域に点在するうちの1グループ名として付けられていることから、ここではこれらを総称して「津軽五所川原古窯跡群」と呼ぶことにする。
表4 津軽五所川原古窯跡群一覧
No.窯跡名発掘調査者発掘年概要文献
1原子山道溜池窯須恵器,窯体壁片散布村越潔・新谷武「青森県前田野目砂田遺跡発掘調査概報」
「北奥古代文化」第6号 S49.5
2砂田B-1号窯坂詰秀一ほかS43.5半地下式無階無段登窯
4m×1.6m 1基
五所川原市教育委員会「津軽前田野目窯跡」 S68.5
坂詰秀一「津軽前田野目窯跡」 S68.12
3砂田B-2号窯須恵器,窯体壁片散布
4鞠ノ沢奥(C)窯須恵器,窯体壁片散布地,
燃焼部破壊(幅約1.5m)
5砂田D-1号窯村越潔
新谷武
S48.11半地下式無階無段登窯
7.5m×1.65m 1基
村越潔・新谷武「青森県前田野目砂田遺跡発掘調査概報」
「北奥古代文化」第6号 S49.5
6砂田D-2号窯村越潔
新谷武
S48.11灰原のみの調査,遺物多量No.14に同じ,「弘前大学考古学研究」 第1号
新谷武「五所川原市周辺の須恵器窯跡出土の長頸壺について」
7砂田E窯須恵器,窯体壁片散布
8鞠ノ沢A窯坂詰秀一ほかS43.5半地下式無階無段登窯
9.2m×2.3m 1基
坂詰秀一「津軽前田野目窯跡」 S68.12
9持子沢A窯須恵器,窯体壁片散布
10持子沢B-1窯坂詰秀一ほかS47半地下式無階無段登窯坂詰秀一「津軽持子沢窯跡調査概報」
「北奥古代文化」第5号 1973
11持子沢C窯須恵器,窯体壁片散布
12持子沢D-1窯坂詰秀一ほかS48半地下無階無段登窯
9.4m×1.9m 1基
坂詰秀一「津軽持子沢窯跡第2次調査概報」
「北奥古代文化」第6号 S49.5
13真言館窯須恵器,窯体壁片採集No.10.11に同じ
14桜ヶ峰窯新谷武S48.9半地下無階無段登窯 1基新谷武「桜ヶ峰窯跡調査概要」 S48
15郷山前窯須恵器,窯体壁片採集No.14に同じ
16原子山道溜池窯     〃
17鶉野窯跡     〃 (窯体確認)