-津軽五所川原古窯跡群で生産された須恵器の編年と年代観-

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 これまで、津軽五所川原窯群の須恵器は各窯ごとの特徴が近似しているため、その変遷がほとんど把握されずにいた。このため、実態とは大きくかけ離れた年代観が示された時期もあった。しかし、近年集落遺跡の調査が進むにつれて、共伴遺物から、その大まかな変遷と絶対年代の想定が可能となった。
 また、昭和62年(1987)に行われた能代市十二林窯の調査は、これまで不明だった五所川原古窯跡群の工人の系譜の問題についても言及可能となり、注目される。
 五所川原窯群の個々の窯の変遷についてはまだ明らかでない。しかし、持子沢に点在する窯跡群(持子沢系)と、前田野川上流域に点在する窯跡群(前田野目系)とは、壺・甕類の口縁部・壺底部等を含む成形技術の上で明らかに違いがあり、この特徴から持子沢系、前田野目系がそれぞれにグルーピングされる。
 また、この二つの系列の窯跡群須恵器は、集落遺跡に検出される2枚の広域テフラ(下層は十和田a降下火山灰、上層は白頭山降下火山灰)との関係で、持子沢系→前田野目系の推移が明らかにされている。
 持子沢系の須恵器は十和田a降下火山灰(延喜15年<915>を想定)を挟みその前後の時期、前田野目系は白頭山降下火山灰(10世紀中葉の降下を想定)を挟み、その前後である。
 持子沢系の須恵器は、能代市十二林窯と極めて強い脈絡を持っており、それは特に長頸壺に現れている。十二林窯の組成は、坏・壺(短頸壺・長頸壺)・甕で構成され、わずかに堝が加わる。最大径を胴中央部に有する「なで肩」の形状や、高台部接合前に底面を菊花状にヘラ調整する特殊な技術は、両窯における工人の直接的なかかわりを示すものであろう。
 また、坏は、五所川原窯のものがすべて回転糸切り後に再調整が行われないのに対し、十二林窯のものは、約20%の割合で手持ちヘラケズリを施すなど、より古い様相を示す。したがって、十二林窯→持子沢系(持子沢B-1号窯、持子沢D-1号窯)→前田野目系(砂田B-1号窯、鞠ノ沢A窯、砂田D-1号窯、砂田D-2号窯)の変遷としてとらえることができる。なお、持子沢系・前田野目系、それぞれの内部の変遷は今後の課題である。
 次に年代観については、十二林窯は坏の調整技法等から9世紀末葉から10世紀初頭の時期が与えられる。また、持子沢については、器種組成や、回転糸切り無調整坏のみの存在等の特徴のほかに、十和田a降下火山灰層(915年が想定)を前後することから、9世紀末から10世紀前葉期の幅で考えられる。さらに前田野目系は、坏が比較的生産される時期から、坏・鉢類の小物が消滅し、大甕のみになる時期までの間、すなわち、開始が10世紀中葉(10世紀第二四半期の白頭山火山灰降下以前)、終末が11世紀中葉の比較的幅のある時期が想定される。終末期では、古館遺跡・砂沢平遺跡・蓬田大館遺跡等の防御性集落に特徴的に現れる把手付土器などに共伴するが、須恵器(大甕のみ)の量は極めて少ない。なお、この時期には既に土師器(赤褐色土器も含む)・須恵器等の供膳具のほとんどは木製容器に置換されている。

図65 集落遺跡出土の須恵器坏類(7~10世紀)


図66 集落遺跡出土の須恵器坏類(9~10世紀)


図67 集落遺跡出土の須恵器鉢類・堝(9~10世紀)


図68 集落遺跡出土の須恵器長頸壺(9~10世紀)


図69 集落遺跡出土の須恵器壺類(9~11世紀)


図70 集落遺跡出土の須恵器大甕(8~11世紀)


図71 集落遺跡出土の須恵器大甕(9~10世紀)