この時期、律令支配地から、津軽地方に搬入された文物には、各種須恵器・鉄製品・ガラス玉などがある。このほか、多くの搬入品が想定されるが、遺物としての痕跡をとどめていない。須恵器には坏・高台付坏・大甕・横瓶(べ)があり、一般的な農村集落や終末期古墳群から出土している。須恵器は産地が特定できないものの、出羽国支配地内の国営の窯業地であろう。ただ7世紀代の須恵器は少なく、8世紀後半代に下るにしたがって増加する。
図120 東北地方南部以南から津軽地方に搬入された土師器・須恵器
また、この時期は、津軽地方においては鉄生産が行われておらず、農工具や武器類のすべては、出羽国または陸奥国支配地、あるいはそれ以南からの搬入品である。製品としては鋤・鍬・鎌・刀子・蕨手刀・直刀等がある。
9世紀に入ると律令国家の支配地は、青森県を含む東北地方の全域にまで及んだと見られ、生活様式だけでなく、精神文化に至るまで東北地方南部地域との大きな相違は認められなくなる。土器文化の面では、土師器製作にロクロが導入された時期でもあり、この技術は東北地方の全域でほぼ同時に開始されている。ただ、須恵器生産は、まだ津軽地方では行われておらず、秋田県・山形県域からの搬入品で需要の多くをまかなっている。なお、この時期には北陸地方(加賀・能登・佐渡)との関係も深く、須恵器の一部は、この地方からの搬入品であることも胎土分析等を含む理化学的研究からも指摘されている。また、土師器甕の一部には「北陸型甕」と称される丸底で外面叩き成形したものも弘前市境関館遺跡や尾上町李平下安原遺跡で出土している。
図121 境関館遺跡に搬入された北陸産の須恵器
また、鉄生産もこの地域ではまだ行われておらず、秋田県以南の地域からの搬入品と見られる。しかし、製錬や精錬は行われていないものの、一部で小鍛冶が行われたものと見られ、羽口も出土している。このほか、律令官人と密接にかかわる腰帯の飾りである石製丸鞆(まるとも)が、五所川原市観音林遺跡で出土している。
10世紀においては、他地域からの文物は基本的に9世紀代と同様であるが、須恵器生産と鉄生産が津軽地方でも開始され、この種の需要はほとんど在地生産でまかなったと見られる。しかも、この地方で生産された須恵器は津軽地方のみならず、北緯40度以北の各地に搬出されている。なお、この時期には猿投(さなげ)窯産灰釉陶器が平賀町大光寺城跡で出土している。折戸53窯式(10世紀前葉期)のものであるが、同窯式のものが六ヶ所村沖付(1)遺跡でも出土している。
10世紀後半から11世紀代は津軽地方を中心として東北地方北部地域が独自文化圏を形成した時期であり、各種の手工業的生産や農業生産が飛躍的に発展した時期でもある。中でも鉄生産の発展は目ざましいものがある。しかし、鉄の始発原料は砂鉄ではなく、鉄鉱石であるところから、鉄鉱石産地である近江地方、あるいは大陸から製練鋼が搬入された可能性が高い。このほか、中国産青白磁も黒石市高館遺跡(11世紀)の竪穴住居のかまど内から出土している。大陸との直接的な交易の結果なのか、九州・北陸を経由したものかは今後の課題となっている。
12世紀は、奥州藤原氏が、平泉を拠点として東北地方のほぼ全域を支配した時期でもある。特に、津軽地方は平泉から直線距離にして約200kmも離れているにもかかわらず、遺跡の数、あるいは出土遺物の中での「京都系かわらけ」や中国製陶磁器・国産陶磁器は平泉の都市域やその周辺、あるいはそれと深くかかわる地域と様相を同じくしている。特に中崎館遺跡(弘前市)においては、各遺物が質・量ともに平泉の都市域に準ずるものであり、この遺跡は、平泉と直接かかわる小規模な出先機関としての性格が想定されている。また、津軽平野や外ケ浜に展開する浪岡城内館遺跡(浪岡町)や境関館遺跡(弘前市)、あるいは内真部遺跡(青森市)・蓬田大館遺跡(蓬田村)なども奥州藤原氏との関連でとらえられる遺跡である。藤原氏は北方、特に北海道や大陸北部との交易を重視していたことが文献上でも知られており、その交易を発展させるために、この地域の経営を重視したものであろう。
この時期の搬入品としては、「京都系かわらけ」(中崎館・浪岡城内館・蓬田大館・内真部)、常滑・渥美系の瓷器系陶器(蓬田大館・中崎館・浪岡城)、珠洲等の須恵器系陶器(境関館・浪岡城・蓬田大館・中崎館・源常平)などがある。一方、中国製磁器は白磁の碗・皿類(蓬田大館・浪岡城・境関館・十三湊・内真部・中崎館)、四耳壺(浪岡城内館)があり、また、青磁の碗・皿類(境関館・中崎館・蓬田大館)もある。
図122 古代の陶磁器(1灰釉陶器,2~15・17白磁,16~19青磁)
図123 古代の陶磁器(1~8須恵器系陶器,10~12瓷器系陶器)