(2)北方文化との交易・交流

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 7・8世紀においては前述のように、本地域と北海道道央部以南とは同一文化圏内にあり、種々の文物が行き来し、頻繁な交流があったことが知られている。このため、北海道との文物の差はほとんど認められていない。しかし、サハリンやオホーツク文化とは様相を異にしており、この文化圏の文物が北海道道央部に散見するが、津軽地方では未だ確認することができない。
 9世紀になると、青森県域全体が律令体制の影響を強く受けることとなり、それと同時に津軽海峡を境として、これまでの文化圏が分断され、北海道は擦文文化という独自の土器文化圏を成立させる。したがって、9世紀から10世紀前半期の擦文文化の文物、特に擦文土器の搬入は数える程度にすぎない。
 10世紀後半以後11世紀においては、律令体制の崩壊に機を合わせるように擦文文化圏との交易や交流も活発さを増す。この背景には、本来の同一文化圏に再統一されようとする力が働いたものと見ることができる。津軽地方を中心として、県内には45遺跡ほどの擦文土器の出土遺跡が見られ、しかも、この実態は単に擦文土器の搬入にとどまらず、各種生産物、とりわけ稲作を中心とした農業生産の主要な担い手ともなっている。したがって、擦文土器にはこの地方で生産されたものと、北海道からの搬入品があるが前者が多い。津軽平野の徴高地上に展開する石上神社遺跡(木造町)、久米川遺跡(稲垣村)などはその代表的遺跡である。
 12世紀においては、北方との交易や交流が奥州藤原氏の管理下で活発に行われていたものと想定されるが、北方系文物は現在のところ確認されていない。