〈時期的な変遷〉

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掘立柱建物跡柱間の基準
12世紀Ⅰ型-①とⅡ型が主屋の主体をなしⅣ型が付属屋として構成7~8尺が多いか
13世紀主屋が総柱のⅠ型-①でそれにⅡ型、Ⅲ型、Ⅳ型が付属屋になる8尺主体か
14世紀日本海側はⅠ型-②が、北上川流域はⅡ型-①かⅡ型-③の主屋となる6尺代から8尺代
15世紀北上川流域はⅠ型-①を主体にⅡ型が、青森県ではⅠ型-①を主体にⅠ型-②とⅡ型がある7尺代を含む6尺代
16世紀Ⅰ型-①にⅠ型-②を含む主屋が多い6尺5寸~6尺8寸

 掘立柱建物跡は、同一地域内での変化は予想していたほど大きくないが、平面形や柱間寸法の取り方に地域差のあることが明らかとなり、建築技術の系譜に違いがあるものと推定されている。
 竪穴建物跡は、北東北から南東北、甲信越地方までの広い範囲で発見されている建物様式(鎌倉で発見される方形竪穴建築跡や近年は関西・九州地方まで類例が増加している)であり、平安時代の竪穴住居跡にルーツが求められ、11世紀から17世紀ころまで連綿と造られている。その性格については、最初「住む家」であったのが、しだいに住む機能ではなく「倉庫や工房といった非住居性」の強い建物として残ることになったと推定される。