さらに柱間寸法についても同様の傾向が認められる。宮城県北上川流域では15世紀まで7尺代の柱間寸法が多用されるのに、日本海側では14世紀から6尺代の柱間寸法が出現し、その原因は北陸地方の影響と考えられる。
以上高橋の論考をまとめると、中世の建物跡とそれによって構成されている建築物の景観がおぼろげながら見えてくる。
12世紀段階の遺跡として特色のある中崎館遺跡*37では、その出土遺物が12世紀後半代に集中しているにもかかわらず、検出掘立柱建物跡の柱間寸法は14尺から6尺までとバラエティーに富んでいる。さらに同一地点で5棟以上の建物重複が認められることから、建物のすべてが同一時期の建物跡と考えにくい面もある。13世紀になると、境関館検出の掘立柱建物以外に明確な掘立柱建物跡は少なくなり、板留(2)遺跡のような竪穴建物跡が比較的多く検出されている。14・15世紀では掘立柱建物跡と竪穴建物跡の並存関係が明確になるものの、遺跡によっては掘立柱建物跡のみか竪穴建物跡のみという傾向も認められ、遺跡ごとの精査が今後必要となっている。16世紀に入る浪岡城や根城の調査によって知られるとおり、遺跡の性格のみならず遺跡における住人形態の相違によって、建物跡に違いが認められるようになっている。つまり身分階層による建物状況の相違がある。根城本丸における竪穴建物跡(SI62)の床面から検出された、鎧や釘・銭貨・瓦質土器を参考までに提示しておく(図3)。
図3 根城本丸から検出された竪穴建物跡と出土遺物
浪岡城跡北館(図4参照)では、拙稿*38による分析を参照されたいし、根城東構地区にあっては佐々木の論文*39を参照すると理解が深まるであろう。17世紀以降になると、浜通遺跡の成果に認められるようにしだいに竪穴建物跡は減少し、掘立柱建物跡が主流を占めるようになり、やがて礎石建物跡に変化して行くものと考えられる。
図4 浪岡城北館16世紀前半の景観復元図(高島成侑原図)