第7節 出土遺物と生活

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 中世の遺跡や遺物によって、文献には現れない当時の人々の生活を復元をしようとする時、精神生活に深く関わる遺物及びその出土状況を把握しなければならない。例えば、仏教関係の遺物を抽出しようとすると、中世以前の資料から見なければならない。平賀町鳥海山遺跡から出土している「大佛」とヘラ書きされた須恵器の皿(硯として使っていたらしい)や、尾上町下安原遺跡出土の錫丈、など古代・平安時代の段階から仏教に関連する遺物が認められる。中世に入ると、浪岡城や根城では、五鈷杵・銅椀・高台・仏像・香炉・鉦・鈴・数珠・塔婆・柿経といった例があり、板碑の分布とともに当時の信仰の状況が理解できる。また形代(かたしろ)といった特殊な遺物も、木器で作成した刀形・斎串などがあり、呪術的な生活に対しても示唆を与えることがある。
 葬制の面では、いまだ大規模な墓域の調査はなされていないものの、北海道上ノ国町勝山館に接する夷王山墳墓群の存在する例があることから、当然当地においても発見の可能性は高いと推定される。
 中世人骨出土事例を見ると、下北郡川内町宿野部遺跡出土人骨は、珠洲の擂鉢をかぶせて埋葬し和人の形質が認められた。珠洲の擂鉢は15世紀ころの年代観である。八戸市根城跡東構地区出土人骨はハンセン病の痕跡がある埋葬であり、内耳鉄鍋を頭にかぶせ筵のようなものに覆われていた。陶磁器の中に志野が出土していることから、16世紀末から17世紀初頭の埋葬が推定される。同じく根城跡岡前館では土壙埋葬が数例存在し、本丸では幼児骨だけを埋葬するという特殊な事例が存在する。15~16世紀の埋葬である。浪岡町浪岡城跡北館出土人骨は土壙埋葬であり、女性骨で瓦質土器の出土から16世紀頃と推定される。また、北館と猿楽館の間の井戸跡から幼児骨が出土していることが、後日判明した。堀越城跡出土人骨は三ノ丸の堀跡改修に関連するものであろうか、明確なことは分からない。東通村の浜通遺跡出土人骨は、火葬土壙8基と土壙埋葬1基が検出されている。住居から離れた小高い丘陵に位置し、銭貨を副葬していた。市浦村の伝山王坊出土の猿投四耳壺(図5-1)には火葬骨が入っていた。さらに琴湖岳遺跡出土人骨も火葬骨という。このような、埋葬に当たっての城館及び集落における場所の選定、副葬品の有無、さらには擂鉢や鉄鍋をかぶせる儀礼がどのような系譜上にあるのか興味のあるところである。
 出土文字資料(陶磁器・漆器・木器ほか)は比較的少ない。これは中世の遺跡で一般的な木簡の出土例が少ないためである。
 陶磁器の底に文字・記号を書いた例と、漆器の底や側面に文字の書かれた例は、浪岡城跡に多いものの「大」「二」「大上」「叶」などの漢字とともに梵字状の事例があり、すべてを判読できる状況ではない(図23)。

図23 陶磁器に書かれた文字(浪岡城跡出土資料)

 木製品に墨書で書かれた例は、浪岡城跡において木版(図24-1)柿経『梵字・光明真言』(図24-2)や卒塔婆(図24-3)、付札などがあり、根城でも付札に『田茂木…』と書かれた事例がある。堀越城では木器の表面に達筆な文字で書かれた事例が存在するが判読までには至っていない。
 今後、科学的な調査を進める事によってより多くの事例が発見されると思われる。

図24 浪岡城出土墨書例