5.大森勝山遺跡

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(遺跡番号 02007)(図5~8)
(1)所在地 弘前市大字大森字勝山495~507
(2)遺跡の立地
 岩木山の北東麓、手白森山(144.9m)の南に広がる標高140m~145mの舌状台地上に所在し、当台地は岩木山麓を下る大森川と大石川なる小河川に挟まれ、南北を開析されている。
(3)調査の経緯
 当遺跡も岩木山麓原野の開発事前調査として、昭和34年(1959)8月17日~9月5日(第1次)、同年10月1日~同月31日(第2次)、昭和35年(1960)8月23日~9月14日(第3次)、同年10月27日~11月2日(第4次)、同年11月9日~同月13日(第5次)、昭和36年(1961)8月1日~同月25日(第6次)の6次にわたる発掘調査が弘前市教育委員会により実施された。
(4)遺構・遺物の概要
 当遺跡は、第1次調査により台地の南西部から13.77m×12.80m、面積150.4m2を測る円形大竪穴住居跡が発掘され、発見当時は日本最大の竪穴住居跡といわれた(図5)。第2次調査では、台地の北東端に近い標高141mの地区で図6に示した10点の旧石器を発見した。これらの石器は、台地のベースを成している灰赤褐色粘土質土層を覆うローム層から出土している。石器はナイフ形石器(1~5)・彫刻刀(6~8)・ポイント状スクレパー(9)・削器(10)などである。第3次から第6次にかけては大竪穴住居跡と旧石器出土地区との間で発見された環状列石(第2章図26)に関する調査であり、当遺構は長径49m、短径39mの楕円形を成し、これは77を数える石組の集合体であった。石組の下部には土壙は見られず、列石外の集石地区に人の埋葬が可能な土壙が見い出されている。出土遺物は、大竪穴住居跡付近から縄文時代前期末の円筒下層d2式土器(図7-1)、大竪穴住居跡内は縄文時代晩期の大洞B式土器(図7-2)、環状列石付近及び集石地区では縄文時代後期と同時代晩期の大洞B式・大洞BC式(この形式の土器が多数を占める)・大洞C1式土器のほか、土偶、石器(図7-石鏃(3)・石匙(3・5)・箆状石器・石錐(5)・磨製石斧(4))、石製品(図7-石剣・石棒(5)・独鈷石・円盤状石製品・軽石製品・垂玉類)・円盤状土製品(人面を表したもの、図7-6・7)など主に縄文時代晩期の遺物が出土している。

大森勝山遺跡発見の環状列石


大森勝山遺跡の大堅穴住居跡床面における遺物出土状態


図5 大森勝山遺跡大堅穴住居跡実測図


図6 大森勝山遺跡出土遺物(旧石器)、11は弘前市大沢出土


図7 大森勝山遺跡出土遺物
1 円筒下層d2式土器


2 大洞B式土器


3 石鏃、石匙


4 磨製石斧


5 石匙、箆状石器、石錐、石剣、石棒


6 円盤状土製品


7 円盤状土製品


図8 大森勝山遺跡大堅穴住居跡内出土遺物(『岩木山』1966年より)

※追記 図6-11に示したエンド・スクレパーは弘前市大沢出土といわれるが遺跡は確認していない。
※参考文献
1)村越潔「岩木山麓の大森勝山遺跡で発見した大竪穴住居址」(弘前大学国史研究19・20合併号)1959年12月
2)村越・渡辺・田村・磯崎「大森勝山遺跡」(岩木山-岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会 1966年3月
3)村越潔「大森勝山遺跡」(日本の旧石器文化第2巻 遺跡と遺物・上)雄山閣出版 1975年5月