(1)所在地 弘前市大字下白銀町1番地
(2)遺跡の立地
弘前市内の中心部を占める台地(西は岩木川・南は寺沢川・東は土淵川等によって画された)の北端部は、慶長15年(1610)弘前城が造営され、津軽地方を支配する地点として威容を誇っていたが、その中心部である本丸の旧天守台下と、東側の三の丸の北部に位置する公園緑地課前の2か所に遺跡があり、前者は藩政時代の本丸造成によって厚く覆土され、後者は台地の末端を二階堰によって切り取られ、北側はそのため数メートルの崖面となっている。なお後者の遺跡一帯は昭和52年(1977)の「あすなろ国体」時にテニスコートが造成されていた。
(3)調査の経緯
本丸旧天守台下は、本丸の西側下に横たわる蓮池の護岸工事に関連して、昭和55年(1980)10月22日~同年11月8日と、昭和56年12月5日~翌57年1月30日の2次にわたり、弘前市教育委員会が発掘調査を実施した。一方の公園緑地課前遺跡は前述のテニスコート設置と、藩政時代の番所移転及び水洗便所設置に伴う排水管工事のための緊急調査が、昭和54年(1979)8月20日~同年9月9日に行われ、弘前市教育委員会がそれを担当した。
(4)遺構・遺物の概要
両遺跡とも遺構は発見されていない。遺物は、昭和56年度の蓮池護岸工事で、縄文時代前期の円筒下層b式・同d1式土器、同時代中期の円筒上層a・b・c式土器のほか、同時代後期の十腰内Ⅰ群(式)土器破片に加えて、平安時代の土師器をはじめ、藩政時代の陶磁器・瓦質陶器等が出土した。縄文時代の石製品では半円状扁平打製石器が見られる。一方の公園緑地課前遺跡は、図25に示した土器が発見されている。いずれも台付深鉢形を呈する粗製土器であり、縄文時代晩期の大洞C1式に属する。なお当該出土土器を前提に考察すると、竪穴住居跡に遭遇していた可能性もある。また、当城本丸跡の天守閣付近でも、縄文晩期の大洞A式土器と石器が採集されている。
図25 弘前城内公園緑地課前遺跡出土遺物(縄文晩期)
※参考文献
弘前市教育委員会『史跡弘前城跡はす池発掘調査報告書』弘前市 1982年3月
福田友之「弘前城本丸跡発見の石器時代遺物について」(北奥古代文化7)1975年4月