(1)所在地 弘前市大字中崎字野脇76-2ほか
(2)立地・環境 遺跡は岩木川とその支流である平川及び後長根川との合流地点から約1km南に位置している。土淵堰西方にあって河川改修される前は、上位沖積面を蛇行する後長根川の北側にあり、調査区南端の盛土下から検出された泥炭層から低湿地と推定される後背湿地と沖積面の境界上に遺跡があったと考えられる。12世紀後半から13世紀前半の遺跡として著名な中崎館遺跡の南西120mにあり、月夜見橋に隣接して中崎集落の一画を成している。
図125 遺跡の位置図
野脇遺跡位置図と航空写真
(3)発見の経緯 後長根川の背水堤を建設するための改修工事予定地に、中崎館遺跡と野脇遺跡が存在したため、建設省東北建設局青森工事事務所から依頼され青森県教育委員会が記録保存の立場から、中崎館遺跡を昭和63年(1988)5月から9月まで、野脇遺跡は平成3年(1991)6月から11月まで発掘調査を実施し、面積は3,533m2が対象となった。
(4)歴史環境 中崎館遺跡から出土している12世紀後半から13世紀前半の各種遺物は、野脇遺跡からも中世の陶磁器が出土していることによって関連性をもって考えることができた。しかし、当地域(中崎・野脇)についての具体的記述は中世の文献史料にはでてこない。ただ貞和5年(1349)の熊野党先系譜(『米良文書』)には、
「津軽三郡内しりひきの三世寺の別當ハ 常陸阿闍梨房舎弟大和阿闍梨房にて候 彼引たんな皆當坊へ可参候 安藤又太郎殿号下国殿 今安藤殿親父宗季と申候也 今安藤殿師季と申候也(以下略)」
とあり、中崎の隣接地三世寺には熊野信仰に連なる系譜が存在し、安藤氏の勢力範囲と重なっていた可能性も有している。また、中崎の薬師堂には地蔵立像の板碑が残っており、当時の資料となりうる。
江戸時代になると、「本藩通観録」巻六に、
「寛永十三(1636)丙子年乳井美作先祖は福王寺といふ、(中略)其子大隅中崎村を開き右三ヶ所にて二千石余領知、大隅子日向といふ、日向之子美作なり 云々」
とあり、乳井大隅が中崎村を開村したという記録が出てくる。以後、中崎村が見える史料として、「陸奥国津軽郡之絵図」正保2年(1645)(県立郷土館)、「津軽知行高之帳」正保2年、「津軽郡知行高辻帳目録」寛文4年(1664)などがあり、「津軽知行高之帳」及び「津軽郡知行高辻帳目録」には、村高212石余、田方192石と記されている。さらに、「津軽郡御検地水帳」貞享4年(1687)では村高793石余、田方729石、畑方63石余と数十年を経て生産高の大幅な伸びを見ることができる。この検地における小字として初めて「野わき」という地名が出てくる。
土淵堰は正保元年(1644)に創設されたとされ、以後17世紀を通じて治水工事、改修工事が行われたようで、先の生産高の伸びは土淵堰の影響が大であったと言われる。
(4)発掘状況 巻頭カラー写真参照
(5)検出遺構 検出された遺構から出土した遺物は、縄文・弥生・古代の遺物も存在するがいずれも中世・近世(ほとんどが近世の遺物を含む)の遺物といっしょに出土していることから、遺構そのものは中世・近世と考えることができる。掘立柱建物跡13軒、竪穴遺構2基、土坑14基、井戸跡6基、溝・堀跡12本、かまど状遺構2基、埋甕遺構1基が検出されている。
このうち掘立柱建物跡については、基準柱間寸法より12~13世紀から幕末明治期のものまで想定でき、遺構変遷について示唆を与えてくれる。つまり9.00尺(SB12)は12~13世紀ごろ、8.50尺(SB13)・8.30尺(SB04)・7.70尺(SB11)は13~14世紀ごろ、6.90尺(SB10)は14世紀後半~15世紀ごろ、6.60尺(SB01・SB02・SB03・SB07)は16世紀後半、6.50尺(SB09)は16世紀末から17世紀初め、6.30尺(SB05・SB08)は江戸中期、6.00尺(SB06)は幕末から明治とされている。掘立柱建物跡の年代観を溝・堀跡及び土坑の出土遺物年代観からと補正を加えて、遺構変遷を示したのが図126・図127である。
図126 野脇遺跡遺構変遷図(1)
図127 野脇遺跡遺構変遷図(2)
12~13世紀では、SB12が単独で存在し中崎館と関連する遺構が本調査地域にまで存在した可能性をうかがわせる。14~15世紀では比較的大型の掘立柱建物跡と屋敷を区画するような溝(SD06)が存在し、出入り口と思われる部分もある。16世紀末から17世紀初めは並立する掘立柱建物跡群があり、井戸跡(SE01)も近接して存在する。17世紀前半は東側に深い堀跡が南北に2本走り、特にSD07からはヒバ材による梁・桟・底板・側板からなる樋状遺構(口絵カラー写真・図128)が出土して注目された。17世紀後半から18世紀になると、北側に弧状を呈する溝が周回するようになり、対応する掘立柱建物跡と出土遺物から考え、本遺跡の最盛期と想定される時期でもある。19世紀前半になるとまたも東側に南北に走る堀が存在し、掘立柱建物跡も比較的大型の建物となる。そして幕末から明治にかけては掘立柱建物跡だけになり、溝や堀などはなくなるようである。
図128 野脇遺跡出土樋状遺構実測図
このような遺構変遷を見ると、中世の時期から集落的な機能を有しながらも17世紀前半代の堀の構築がエポックとなって建物跡もその堀を意識した位置関係を示しており、後述する多量の肥前陶磁器によって近世集落としての野脇遺跡が確立する姿を見ることができる。なお、遺構変遷図はもっと細かく分解できると思われるが、紙面の関係で概略を述べるにとどまっている。
(6)出土遺物(カラー図17~22) 出土した遺物は、縄文時代(晩期を中心とする)の土器・石器、弥生時代の土器、古代の土師器・須恵器、中世・近世の陶磁器・鉄製品・銅製品・木製品・銭貨などであり、遺構に伴う中世・近世の遺物を中心に概括する。
カラー図17 野脇遺跡出土陶磁器(1)
1・3~6白磁 2染付 7~18青磁
カラー図18 野脇遺跡出土陶磁器(2) 1~13唐津(表裏)
カラー図19 野脇遺跡出土陶磁器(3) 1~9美濃
10~48肥前
カラー図20 野脇遺跡出土陶磁器(4) 1~17肥前・肥前系・その他
カラー図21 野脇遺跡出土陶磁器(5) 1~21肥前・肥前系
カラー図22 野脇遺跡出土陶磁器(6) 1~13肥前
陶磁器は、中世段階の舶載陶磁器として、白磁碗(図129-1・2)・青磁碗(図129-3・4・10・11)青磁皿(図129-5・6)、染付(図129-7・8・9)があり、13~16世紀後半までの年代観を有している。図129-12は近世信楽の大甕と推定されるもので、便所壺の可能性を有する。
図129 野脇遺跡出土陶磁器実測図(1)
以下出土遺物の多い遺構を中心に見てみる。
SE01出土の肥前灰釉皿は一般的に唐津と称されるものであり、胎土目(図130-1・2・4)と砂目(図130-3)のものが見られ、年代的には16世紀末から17世紀前半である。
ST01では、灰釉皿胎土目(図130-5・7)及び砂目皿(図130-11・12)と肥前染付皿(図130-6・8・10)そして美濃窯で製作された志野皿(図130-13)がある。年代的には16世紀末から17世紀前半である。
図130 野脇遺跡出土陶磁器実測図(2)
SD01の陶磁器には、肥前染付皿(図131-1・2・3)、同染付碗(図131-4・5・6)、肥前擂鉢(図131-7)があり、年代的には17世紀である。SD03は多量の陶磁器が出土している。二彩大鉢(図131-8)、染付皿(図132-1・2・3・4・10)、染付手塩皿(図132-5・6・7)、染付長方形皿(図132-8)、白磁捻花形打皿(図132-9)、瑠璃釉十角鉢(図132-11)、染付碗(図132-12・14・16・17、図133-4・6)、染付八角鉢(図132-13)、青磁染付蓋付碗(図133-1・2)、紅皿(図133-5)、染付蕎麦猪口(図133-9)、刷毛目壺(図133-10)、鉄釉壺(図133-11)があり、17世紀後半から19世紀前半のものが多い。鉄製品には鋏(図135-1)、釘(図135-2・3)、金具(図135-4)、鍋鉉(図135-6)、かすがい(図135-7)、鎌(図135-8・9)、不明鉄製品(図135-5)がある。小形の焜炉型の土器(図136-1)もある。銅製品としては、簪(図136-2・3・4)、板状製品(図136-5)、煙管の雁首(図136-6~11)、同じく煙管の吸い口(図136-12・13・14)、銭貨・寛永通宝(図137-6~21)がある。また亀や大黒天、鶏等の土製人形(図137-1~4)と円板状土製品(図137-5)も出土している。
図131 野脇遺跡出土陶磁器実測図(3)
図132 野脇遺跡出土陶磁器実測図(4)
図133 野脇遺跡出土陶磁器実測図(5)
図135 野脇遺跡出土鉄製品実測図
図136 野脇遺跡出土遺物実測図(1)
図137 野脇遺跡出土遺物実測図(2)
SD07からは、肥前染付皿(図134-1・2・3・4・6)、染付稜花皿(図134-5)、染付碗(図134-8・9・10)、瀬戸系染付皿(図134-11)、肥前鉄釉片口擂鉢(図134-12・13)が出土し、年代は18世紀代のものが多く見られる。
図134 野脇遺跡出土陶磁器実測図(6)
木製品としては、SE03出土の曲物(図138-1)、SE06出土の曲物底(図138-6)、SE05出土の曲物底(図138-2・4)、SD08出土の曲物底(図138-5)と柄のついた刃物(図135-10)、SD02出土の斎串状木製品(図138-3)のほか、板材などが出土している。
図138 野脇遺跡出土木製品実測図
このような近世の遺物の中で、陶磁器の出土量としては県内でも弘前城と双璧をなすものである。特に、17世紀代の陶磁器より18世紀代の陶磁器が増加し、碗・皿・鉢・擂鉢・甕のほかに、水滴・紅皿・油壺・お歯黒壺なども出土しており野脇遺跡の性格を考える上で重要な視点となろう。
※参考文献
青森県教育委員会『野脇遺跡…1級河川岩木川支流後長根川改修工事に係る埋蔵文化財発掘調査報告書…』(青森県埋蔵文化財調査報告書第149集)1993年